24.校庭で息子を火葬に

生いたち

私は三次市(みよしし)向江田町(むこうえたまち)で、父・中井郁松、母・ミネの間に女子3名中長女として生まれました。母は、私が10歳の時病死しました。そのころ、父は傘屋をしていて庄原(しょうばら)に住んでいたので、私は庄原尋常高等小学校 (じんじょうしょうがっこう)を卒業後は、母亡きあとの家事を手伝っていました。20歳の時、吉舎(きさ)の農業・今田辰文のもとへ嫁(か)し、4人の子どもを生み育てていたが、夫は30歳のとき病死しました。夫の両親は若く、孫の4人を立派に育てていく自信がおありだったので、私は1人で実家へ帰りました。昔のことで、女1人では生きてゆくために困難でした。その後、世羅西町(せらにしちょう)の坂本喜介と再婚しました。3人の男子の養育・進学のために昭和14年広島市へ出て、夫は東洋製罐(株)に、私も同じ会社の炊事婦として勤務し西観音町(にしかんおんまち)に住みました。

うろうろと光る眼

当日私たち夫婦はたまたま休日で、自宅にいました。異常な光と爆音に驚いて、私は一時気を失ったのです。住んでいた家は瓦も壁も落ち、柱も傾いて、夫は頭に切り傷を受け、たらたら血が流れるままで、室内の私の所へ引き返して来ました。手当てのことより早くここを逃れることと思い、布団(ふとん)を1枚ずつ頭から被(かぶ)って戸外(こがい)へ出ました。近所の人たちと広場の方へ行くために、重傷者(じゅうしょうしゃ)は車に乗せて引いたり押したりしていました。

 

そのうち黒い雨が降りました。私は傘をかぶったまま夫の後から川土手を歩きました。重傷者は血の流れるままで、汗とほこりで真黒い顔をし、目ばかりうろうろと光っていた様子(ようす)だけは今でもはっきりと覚えています。

何ひとつ食物はなく、8月6日の夜を迎えました。朝出勤したままの息子(むすこ)の身の上を案じながら、私は多くの人々と川土手で眠れぬまま朝を迎えました。昼ごろに乾パンとにぎり飯2ヶ配給され、私は主人と2人で息子を探しに出かけました。

生き抜くために

やっと8月8日、本川(ほんかわ)小学校校庭で、たくさんの焼けただれた性別もつかぬ死体の群(むれ)から息子の遺体(いたい)が確認(かくにん)されたのです。特徴のある金の入歯(いれば)と、牛製のズック靴の皮底(かわぞこ)の部分が焼け残っていたためです。8月8日夜、校庭で泣きながら火葬(かそう)し、骨を持って夫とともに帰宅し、焼け残りの家で冥福(めいふく)を祈ってやりました。最愛の我が息子は7月に県庁土木課へ就職したばかりで、その事務所が本川小学校2階だったのです。我が子を失っても悲しんでおられず、生き抜くために焼け残りのトタンや材木を拾い集め、小屋を建てて、雨露(あめつゆ)だけはしのげるよう、がんばりました。けれど食料には困って、観音町(かんおんまち)の方の畑にてカボチャを取って来てゆでて食したのです。塩もなく、主食を副食として食べているうち、終戦になり、予科練 (よかれん)へ入隊していた2人の息子も帰りました。食糧難(しょくりょうなん)を解消するために、田舎(いなか)へ引き揚げる事にしました。

原爆症と栄養失調

世羅郡(せらぐん)世羅西町(せらにしちょう)津田(つた)に家を残していたのを幸いに、8月下旬焼け残りの荷物を持って、貨物列車(かもつれっしゃ)に乗り込んで、私だけは塩町(しおまち)の妹宅へ、主人と息子たちは津田へ帰ったのです。私は妹の看病(かんびょう)のため、仕方なく塩町に滞在(たいざい)しました。津田に帰った主人たちは、長い間、空き家にしていたため電燈(でんとう)がなく、石油を明かりにしたカンテラ生活だったそうです。8月6日以来、苦労し続けていた夫は、とうとう9月下旬発熱、下痢(げり)に苦しみ、私が介抱(かいほう)に津田に帰りましたが、注射も薬もなく、10月10日永眠(えいみん)いたしました。今考えて見ると、原爆症 (げんばくしょう)に栄養失調 (えいようしっちょう)とでも言うのではないでしょうか?私は夫亡きあと、妹と父の看病で13年間、庄原(しょうばら)で過ごしました。そして私も昭和40年ごろから次々と体の調子が悪くなり、広島市の原田外科病院で入院生活するようになりました。息子はそれぞれ家庭を持ちましたが、別居生活でした。昭和45年春、原爆養護ホームが設立されたのを知り、私は入所を決心し、同年9月入所させて頂きました。

命ある限り

立派に設備もととのっていて、何不自由のない生活をさせて頂いて、病院と同じ治療(ちりょう)を受け安心して日暮らしをいたしております。ただ手を合わせて、もったいないと感謝のみです。

 

私は戦後、庄原に住んでいる時、広大白菊会 (ひろだいしらぎくかい)を知りました。せめて遺体(いたい)だけでもお役に立ちたいと思って登録(とうろく)いたしました。命ある限り感謝の日送りをさせていただくつもりです。

坂本タカヨ(83歳) 記

被爆地
西観音町・自宅の屋内(爆心地より2.0km)
当時の急性症状
ガラスの破片で足に軽傷。下痢が10日間あった。
近親者の死亡
4男・登(16歳)本川町(ほんかわちょう)職場にて焼死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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