22.長女を奪われ一人生き残った

ただ呆然

広島市的場町(まとばちょう)に、昭和18年ころから私たち家族3人で住んでいました。主人は東洋紡績株式会社に勤務していましたが、19年に満州 (まんしゅう)新京(しんきょう)支店に転勤を命ぜられて、単身赴任(たんしんふにん)していました。私と娘で留守(るす)を守っていました。長女の静子は新潟県の女学校を卒業して自宅で一緒に住んでいました。娘にはお花やお茶の習い事をさせていました。

 

長女は、8月6日用事のために私の代わりで、主人の実家が広島市十日市町(とうかいちまち)にありますので、そこに出かけました。その後、警戒警報 (けいかいけいほう)が発令されました。まもなく、サイレンが鳴り空襲警報 (くうしゅうけいほう)がなりましたが、10分くらいして空襲警報解除が発令されました。洗濯物を干しに上がりましたところ、再び空襲警報のサイレンが鳴りだしました。東の空から西に向かって敵機B29が1機、飛んでいるのを私は肉眼(にくがん)で見ました。恐ろしいのと怖(こわ)いのとで、階下に降りようと階段の中ほどまで降りたところ“ドカーン”と大音響がしました。一瞬にして2階は壊れ、壁が落ちてきました。私は爆弾 (ばくだん)にあったと思いましたので、外に飛び出しました。近所の人に助けを求めましたが、周りの家もみんな壊れていました。ケガをした人、焼けて皮膚(ひふ)が下がった人とともに、比治山 (ひじやま)を目標に段原町(だんばらまち)の知人の家に落ち着き、昼ごろまで休ませてもらいました。少し気分も落ち着きましたところ、娘のことが気がかりでなりませんので、的場町の家に帰ってみるからと話したら、そこの家の人たちが、段原大畑町(だんばらおおはたまち)より北側は火の海だからやめなさいと止められました。が、じっとしておれませんので帰ることにしました。

 

我が家は焼けて何もなくなっていました。隣近所は焼け野原(やけのはら)で、近くに広島駅がポカリと見えました。私はただ呆然(ぼうぜん)とそこに立ったまま、何時間かを過ぎました。これからどうしたらよいか何もわかりません。長女のことが頭に浮かびました。どうしているか、生きているだろうか。そんなことを思っているうちに、紙屋町(かみやちょう)から十日市町(とうかいちまち)の実家にと足は進んでいました。

 

実家にたどりつきましたが、焼け野原でした。実家の皆はどうなったか、気が狂いそうでした。住む所がないので、隣近所の人とともに的場町に帰って焼け残った柱・板・トタン・焼け瓦などを集めて雨つゆをしのぐバラックを建てました。娘と実家の事が気になりますので十日市町を尋ねましたところ、近所の人がこの町の人たちは安佐郡(あさぐん)可部町(かべちょう)に避難(ひなん)していると教えてくれましたので、その足で可部町の収容所を訪ね歩きました。とうとう12日目に娘に会うことができました。可部町の寺に収容されていましたが、顔は半分焼けて両足は大ヤケドをしておりました。見るにしのびない状態でしたが、探(さが)し求めて会えたうれしさでいっぱいでした。

娘の話

苦しい中から娘はこう話してくれました。8月6日的場町の自宅を出て電車に乗って、十日市町の実家の玄関をあけようとした時が8時15分でした。その瞬間、大きな音とピカッとが光ったとたん一時倒れてしまい、近所の方に助けられてここに収容されたと話しました。母と本家(ほんけ)の人たちはどうしたか心配でならなかったと娘は泣きながら話し続け、家に帰りたいと言いますので、収容所の先生に相談しましたら、もう少しここで療養(りょうよう)したほうが良いと言われました。が、どうしても聞きませんので、トラックで広島市十日市町にあるバラック建ての弟宅に帰りました。娘は安心したのか体は悪くなるばかりで、医者にも見せず、とうとう翌日22歳の若さで亡くなりました。娘を十日市の公園にて、亡くなった人とともに火葬してもらいました。花嫁衣裳をまとうことなく、この世を去りましたことは不憫(ふびん)でなりませんでした。

とうとう1人に

私は娘を失い1人となりましたので私の実家、山口県都濃郡(つのぐん)新町の母を訪ね2人の生活を始めました。叔父(おじ)は山口県都濃郡竹島に別荘(べっそう)があったので母と2人で暮らしていました。主人が満州 (まんしゅう)より引き揚げて帰りましたのが、昭和21年7月ごろでした。主人は引き揚げるまで、心身ともに苦労したため体は栄養失調(えいようしっちょう)で、手当てを受けましたが、2年目に死亡しました。私はとうとう1人になってしまいました。叔父の所にいられず、私は嫁に行った身なのでいつまでも自分の実家にもいられず、竹島をあとにして、また、広島市十日市町の弟の家にしばらく置いてもらいました。

 

弟が原爆養護ホームのことを知り、良い所だから安心しておられるからと言って入所手続きをしてもらいました。現在はとても幸せです。私は浄土真宗 (じょうどしんしゅう)を信仰しておりますので、今では不足も悩みもありません。ただ私は主人と娘、親戚15人を奪った原爆を憎む気持ちでいっぱいです。2度とこのような悲惨(ひさん)な恐ろしい原子爆弾を使用しないよう、平和が続くようにお祈りしております。

浜野三都子(84歳) 記

被爆地
広島市的場町・屋内(爆心地から1.7km)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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