28.広島最後の夜の二時

東京・名古屋(なごや)・大阪・神戸(こうべ)・その他、日本の主要都市(しゅようとし)は毎日空襲(くうしゅう)でありました。軍都広島(ぐんとひろしま)・呉(くれ)・軍管区(ぐんかんく)を襲(おそ)う九州方面(きゅうしゅうほうめん)からの空襲は、沖縄(おきなわ)が落ちてからは1日2回ないし3回とあるのが日常(にちじょう)となっていました。

 

私は南観音町(みなみかんおんまち)にある旭兵器工業株式会社という兵器の生産工場の電気部に所属(しょぞく)していました。兵器生産に熟練工(じゅくれんこう)・学徒(がくと)・女子挺身隊(ていしんたい)とともに日夜、懸命(けんめい)に、勝つまではと努力を続けておりました。住まいは南観音町の会社の社宅で、妻と2人きり、子どもに恵まれずの生活で、妻は国防婦人会(こくぼうふじんかい)の世話などいそがしい毎日で、一生懸命に銃後(じゅうご)を守っていました。7月16日以来1滴の雨もなく、田も畑も砂漠のようになり、地の底まで暑さは滲(にじ)み入り、毎日日照りで、8月6日の朝も太陽光線全部が注(そそ)がれたような暑さに思われました。

惨めといわんか・・・

昭和20年8月6日朝の静寂(せいじゃく)を破り、突如、空襲警報(けいほう)が発令されました。防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、警戒(けいかい)しながら会社に出勤しました。空襲解除となりましたので、頭巾を取り、くつろいでいました。8時15分。飛行機の爆音(ばくおん)もなく、したがって何の警報もなく、まったく突然の大空襲で、一瞬にして地上のもの一物も残さず消滅(しょうめつ)してしまった。惨(みじ)めといわんか、悲しいといわんか……。阿鼻叫喚(あびきょうかん)、火攻め水攻め、血の池地獄(じごく)、ガス攻めか。いかなる言葉でもつくせないであろう。同じ渦(うず)の中にいた私たち夫婦は、幸いにも軽傷くらいのことであった。

 

本朝(ほんちょう)、木工場の青年が応召(おうしょう)のため、日の丸に寄せ書きの依頼あり、事務所に入った。とたんに特別高圧電気がショートしたような閃光(せんこう)を発した。瞬間、実に気味悪き音、轟音(ごうおん)か爆音(ばくおん)か、会社が倒れる時の音か大きな音であった。この間、(ごう)に逃げ込む閑(ひま)はなかった。「おのれやったな」と思った。窓が飛ぶ、瓦が飛ぶ。飛ばないものはくずれる、さける、倒れる。立っておるもので、原形をとどめるものは、この社内では1つもなくなった。自分もガラスの破片で軽傷を負う。医務室は重軽傷者でいっぱいであった。大部分の人は、頭と手をやられていた。

 

ただ一筋に生産へ生産へと工場はうなりを発し、少年工も学徒も挺身隊も、身も心も打ち込んで働いていたのに、5分後の今はいかに。工場は倒れ、今までまわっていた軸(じく)はアメン棒のように曲がって、その下で働いていた学徒・挺信隊員は倒れたる者と重軽傷で、傷つかざる者1人もなし。だがしかし1〜2年の少女にいたるまで悲鳴(ひめい)をあげる者1人もなし。気はたっている。「今に見ておれ」の心がいっぱいであった。足の踏み場もなくなった工場へ、地御前(じごぜん)本社から駆けつけた剛気(ごうき)な桑原社長も、あまりにもひどい変わり方で呆然(ぼうぜん)としている。しばらくして1〜2年の寮舎住い(りょうしゃずまい)の子どもたちを避難(ひなん)させ、自分もひとまずわが家へと急いだ。

妻と無事を喜ぶ

会社から南観音町の家までは20分くらいの道程(みちのり)であるが、どこをどうして帰ったのか夢中であった。帰って見れば家と名のつくものは見渡す限り破壊、倒壊で、観音本町の方も南観音1丁目の方もさかんに燃えつつあり。隣は熱処理工場であったが、火が出ていないのは天佑(てんゆう)か、まったく不思議である。わが家の隣組(となりぐみ)の人たちはどこに避難したのか、人影はない。家内(かない)には、まさかの場合には壕は駄目(だめ)だから、下の畑中(はたなか)に避難するよう打ち合わせがしてあったのだが、女子防護団員(ぼうごだんいん)であった関係上、真宗学寮(しんしゅうがくりょう)で負傷者を救護していることがわかったので私も安心した。近所の老母を壁の下から助けて軽傷を負うたくらいのことで、他の傷者の手当には差支(さしつか)えなかった。お互いに無事であったことを喜んだ。

 

町は全く火の海、煙の山、大廈高楼(たいかこうろう)の焼け落ちる音、破裂する音、轟音(ごうおん)が連続する。市内東観音町、西観音町方面から、歩ける者は歩き、そのほかの者は手を取り合って、またある者は車で、二高、また、学寮へとむかっていた。その姿たるや2度と見られない痛ましいものであった。全身ヤケドのため、皮膚(ひふ)がぼろを下げたごとくぶら下がった者、全身が火ぶくれになり、親でも見分けがつかず声まで変わっている者。これらの人は火中(かちゅう)の中のこの暑さに、寒いよ寒いよといって震(ふる)えており、血と汗とごみとで真っ黒い顔をしている。建物に圧せられて腕を折った者、足を捻挫(ねんざ)した者、頭の毛が焼けちぢれている者、歩いて畑中にある学寮に行こうとしていたのであろうか、路傍(ろぼう)に倒れて動けぬ者。水を求めて、ただ水、水と叫んでいる人もいる。われら夫婦は、この人たちに水を与え手当てをして、無我夢中(むがむちゅう)で学寮に運んでやったりしたが、手当ての薬品もなくなり、ついに水道の水も出なくなった。私たち夫婦もまた、身も心もまったく疲れ果てていたので、安全な畑中に避難した。黒い雨が降り出した。これは必ず油を降らせて火をつけるものと思った。このころから町は火の海となり、川は煮え湯の川となり、後でわかったことですが魚は死んで浮き上がっていました。川に逃れた人たちでも、中心地に逃げた人はたいてい死んだのであります。日照りが続いて、水量が少なかった関係もあります。

夜明けを待ちきれず

かくして今日1日は10年もたったような気がした。ようやくわれに返った時、飢(う)えと疲れをおぼえたが、水も出ないし食う物もない。隣組の逃げ残った人々が集まって、東側の路傍に野宿(のじゅく)することになった。二高に集まった重症の者たちのうめき声。母を尋ねて泣き喚(わめ)く幼児(おさなご)の声。愛児(あいじ)を求めて狂った母の声。夜に入るとともに町は火の手が盛んとなり、裂(さ)ける音、火の燃えさかる音、大火か大風の時のような轟音。誰1人話す人もなく、寝もやらず、明かりのない悲惨(ひさん)な長い夜明けを待つのである。みな、飢えと疲れとで失神(しっしん)状態である。

 

しかし、私たち夫婦は夜明けが待てず、意を決して材木町(ざいもくちょう)の橋本夫婦の安否(あんぴ)をさぐりに出かけた。真夜中の2時であった。橋本は家内の両親で、10日前にこの方に疎開(そかい)するから頼むと言っておられた。また今日早朝、母が来られて、野菜など持って帰られて家に着く時間であった。1人はヤケド、1人は重傷で、救いを求めておられるかもしれん。あれこれと言う一時(いっとき)の猶予(ゆうよ)もならない。それで観音橋筋に出かけた。生き残ったか、他の地から来たのか、2〜3名の兵隊さんに注意されながら住吉橋に来た。ここまでは足元もかなり歩けたが、住吉橋からは動けない。重傷者と死者の行列(ぎょうれつ)で、県庁の方に行くにしたがって、電柱・電線・瓦・材木・石・コンクリート・鉄板とあらゆる物が倒れて裂(さ)けている、燃えている、くすぶっている。焼けた電線はくもの巣のように切れてぶら下がっている。まったく足のふみ場もない熱い道を、火気(かき)と煙、ガスにむせび、焼けた木材や煉瓦(れんが)を越え、石をよけて必死である。平常なれば住吉橋から材木町まで10分くらいの行程(こうてい)であるが、県庁までは容易(ようい)でなかった。

 

県庁前の有様(ありさま)はどうだ。死者の多いこと、重傷の多いこと、あちらこちらで水をくれ、兵隊さん水を飲ませてくださいと呼んでおり、うめいている。兵隊さん寒いから毛布(もうふ)に寝かせてと呼んでいる。煉瓦(れんが)の影に、下水(げすい)のそばに腰掛けたり、座したり寝たり、その数(かず)何十何百であっただろうか。おお、この水槽(すいそう)を見よ。頭を突っ込んで鈴なりになって死んでいる。どの水槽もどの水槽も。燃える火の明かりで、転がっている死者の様相(ようそう)を見ると、卵のように円になっている。目玉が飛び出し、鼻から血泡を吹き、唇(くちびる)はふくれ上り、両手両足をかたく握って引きつり、身体はふんぞり返り、頭は焼けてしまっている。生きた体がそのまま火焔(かえん)の中である。身体に火が付いた形跡(けいせき)がない。燃え盛る道の両側の焔(ほのお)の中であぶり死んでいると思っただけで身の毛がよだつし、気が遠くなる。実に悲惨なものである。

不思議な親子

私たち夫婦がたずねる橋本老夫婦は材木町(ざいもくちょう) 誓願寺(せいがんじ)の横の路であったが、この付近は密集地帯で何1つ目標となるものはなく焼けている。辺りはほの暗く、道は悪く熱く、進退窮(しんたいきわ)まっていたが、ここに子ども2人連れた女将(かみ)さんがいた。この密集地帯で。昨日の爆弾投下後から燃えつづけた火の中でやけどもせず、どうして生きていたのか不思議なのである。1枚の畳(たたみ)の上に座っており、右側に水槽があり、子どもが1人寝ており、1人は起きている。

 

「あなたはどこもケガはありませんか?」とたずねたところ、「今朝ここの床屋(とこや)を訪ねて来ました。その時、鏡の破片で手首をやられました。」と言う。見れば手首に布を巻いている。「腰が抜けて動けないのです。すみませんが水槽の水で後ろの火を消してくれませんか。」と言う。見れば畳に火がついてボロボロ燃えている。さっそく消してやったら安心して礼を言われた。

 

「誓願寺はどの辺りですか?」「ついこの先です。」「あなたはこの辺の人ですか?」「ここの天神町(てんじんまち)です。」「お名前は?」「渡辺と申します。子ども1人、今息を引きました。」と言う。疲れて寝ているのかと思ったら死んでいたのである。「母ちゃん水。母ちゃん水。と言いましたが、何分(なにぶん)体が動かず手がきかんので、水も飲まずに死にました。かわいそうでした。」「夜が明けたら兵隊さんが来ますから、苦しくともそれまで我慢(がまん)しなさい。」と言って別れました。この女将さん親子は、兵隊が救助に来るまで生きているであろうかと思った。

 

足元は焼けた鉄板を踏むように熱く、周囲は手ぬぐいで顔を覆(おお)わねばならんほど熱いし、この状態ではとても望みはないような気がした。生死のほどをたしかめたかったがやむをえない。手ぬぐいで顔を覆いながら引き返すことにする。だが、またあの地獄(じごく)の中を通らねばならぬのかと思うと、気が遠くなりそうだ。おたがいに励まし合いながら、やっとの思いで住吉橋まで出た。

 

ああこんな悲惨な事実が、この世の中にあるだろうか…。行く時はまだ腰掛けた人、座った人、自分の腕を枕にして寝ていた人もあった。帰りには声を出す人はほとんどいなかった。これら多くの人は息が絶えたのである。死の時間が来るのを待っていたのである。こんな惨事がこの世の中にあってよいのだろうか。世界のどこの国の人がこの凄惨(せいさん)な実情、大惨劇を見た人があるであろうか。川鬼(かわおに)も声をあげて泣くであろう。

神も仏もないものか

こうして夜も白々(しらじら)と明け渡り、南観音町の道側の草むらにへたりこんだ。ああこの大惨事。夢か幻(まぼろし)か。夢なれば幻なれば消えて覚(さ)めてくれ、と思った。しかし目前(もくぜん)の事実をいかにせん。明けゆく空を仰いで、ああこの世には神も仏もないものか、この戦争に負けたらどうなるのか。

 

ヒロシマは裸になった。昨日からの出来事を何も知らん顔の太陽は、今朝は特別強く照りつける。私は何だか見るべからざるものを見、聞くべからざる声を聞いて、犯罪(はんざい)を犯(おか)したのではあるまいかと、何だか恐ろしい気になる。また自分たち夫婦だけが無事でいてよいものかと思う。

 

家は倒れて住む場所もなく、衣(ころも)もなく、もし田舎(いなか)に帰るところのあるものは逃げ帰るであろう。私たちは郷里・呉(くれ)に帰ろうかとも考えたが、呉も同じである。この南観音町の路傍で、野宿(のじゅく)でがんばってみよう。それより他(ほか)に道はないとあきらめて、ただぼんやりとまたそこへ座り込んだ。ヤケドの手やケガの足を引きずって、とぼりとぼりと歩いて行く人、どこに行くのであろう。親を訪ねてか愛児を探してか、この人たちの心中(しんちゅう)を思うと矢も楯(たて)もたまらない気になる。

息する屍

今日は何としても材木町の焼け跡に行かねばならん。足ごしらえし、水筒(すいとう)を持ち、観音橋方面から行くことにした。ここから材木町までは、わずかの道程ではあるが、どこをどう回って行ったか、どの辺であったか、さっぱり見当がつかない。道らしい道もないのであるが、かろうじて誓願寺の池のあるところにたどりついた。誓願寺の建物は何もなく、全く跡形もない。この寺の中には兵隊もいたし、その他にもたくさんの人がいたはずだが、皆生きながら火葬(かそう)であったろう。またこのへんの防空壕の中では、生きながら土葬(どそう)むし焼きで、もだえ苦しんだであろう。橋本老夫婦宅に1本の大きな松の木が、今は焼け木杭(ぼっくい)になっていたのが目標(めじるし)で家の位置は分かったが、2人の姿は見つからない。2〜3日前に持ち帰った缶(かん)入りの麦の黒こげと老夫婦愛用のラジオは焼けており哀(あわ)れをさそう。死体も2〜3あったが、だいぶん位置も違うし判定もつかんのである。2階であったから多分埋まっているとも思われるが、熱くて今はどうにもならない。焼け跡に少々の水を手向(たむ)け、合掌(がっしょう)して帰途(きと)についた。

西東南も北も山までも 灰になりしか 一物(いちもつ)もなし

 

こうして南観音の路傍にたどりついた。ああ橋本の両親も死んだ。家もきれいに焼けてしまった。どうして私たち夫婦が生き残ったであろうか。生きているのがつらい。いやになった。何もしたくない。今は息する屍(しかばね)である。思えば慶長(けいちょう)の昔、毛利元就(もうりもとなり)がここに城を築(きず)き、天守閣(てんしゅかく)をたてしより、営々(えいえい)としてここに300年。中国一の大都会として軍都(ぐんと)として、世に知られたるこの広島が、一瞬にして煙となったのである。

誰れか涙なきを得ざるや

 

しかし涙してはならん悔(く)やむでない

再建をめざして

辛(かろ)うじて飢(う)えはしのげる。暑い時だから衣服もいらず、一時は野宿でもしのげるが寒くなるのはすぐ来るので、ここの倒壊(とうかい)の家を何としよう。絶対に人には依存(いぞん)はできない。柱3本横たえてでも身体の置き場を作らねばならない。心は疲れ、身も疲れ、全く蝉(セミ)の殻(から)に鞭(むち)打って家の修理にかかったが、もちろん材料も道具もない。まず屋根の瓦を落とし、満足なものは幾らもないが利用し、あとは焼けたトタン・板を集めて打ち付けることにし、不用の釘を抜き取り、曲がった釘は伸ばして使用し、板などもあちらこちらで拾い集めて使い、1日少しずつの修理を日課にする。広島は70年も住めないと伝わり、真(まこと)だと思った。それは爆撃(ばくげき) ガスを土地が吸い込み、野菜物は何も出来ないからという事である。今日は爆撃何日目であるか。敵の飛行機や味方(みかた)の飛行機も来ないし、外部との連絡もない。時間も月日もわからず、毎日毎日家の修理で、くずれ落ちた塀(へい)・壁の取り除きやトタン板の寄せ集めなどしていました。8月15日、誰ということもなく戦争は終わった、無条件降伏(むじょうけんこうふく)だという人がいる。ラジオで天皇陛下が全国民に向かって戦争中止命令、無条件降伏という事を12時に放送せられるという。今まで新聞もラジオもなくまったく暗闇(くらやみ)であった関係上、真否(しんぴ)こもごもである。いよいよこの戦いに負けたとなれば、この私たちの祖国日本はどうなるのか、何という悲しいことであろう。ついに事終わる。神も仏もわれに味方せず。兵士は銃剣(じゅうけん)を捨て、農家は鍬(くわ)をなげたであろう。私たちは機械を捨てた。日本の再建のためにはいかなる辛苦困難(しんくこんなん)にも耐(た)えねばならない。そして明るい日本、平和な日本を建設しなければならない。これがわれらに与えられた課題である。

梶本豊(88歳) 記

被爆地
広島市南観音町・旭兵器工業株式会社工場内(爆心地より3.0km)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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