12.原爆で娘と私は途方にくれて

生いたち

私は、岡山県吉備郡(きびぐん)で、父・萩原賢助、母・スミとの間に、男2人、女5人の内の次女として生まれました。現在は、姉1人と、妹1人、岡山県におりますが、他の兄弟はみんな他界(たかい)し3人だけとなりました。

 

父は役場に勤めておりましたが、いろいろな事情があり、私は、12歳の時、叔母(おば)の吉田家に養女(ようじょ)となってもらわれていきました。けれど、親類同士が仲違(なかたが)いして、気まずくなったので、この家を飛び出し、広島市の堺町(さかいまち)で、5年ぐらい住み込み店員として働きました。

 

19歳の時に、田辺淳と結婚しましたが、1年ぐらいで長女雪子を連れて離婚し、苦労しながら雪子を育てました。雪子が成人し、横川守さんに望まれ、結婚した時には、長年の苦労が報(むく)いられたと思い、本当に安心いたしました。

 

昭和18年、ひとり身となった私は、草津町(くさつまち)で蒲鉾(かまぼこ)製造業をしていた植村永一と再婚しました。この主人が大変むつかしい人で、酒乱(しゅらん)の傾向もあり、たいそう苦労をいたしました。2度も自殺をしようとしたこともありましたが、キリスト教を信仰する事により、救われました。当時の私は、友人からも、「しわの中に顔がある」と言われるくらいやつれておりました。

被爆時の状況

昭和20年1月、主人は海軍応召 (おうしょう)し、呉(くれ)におりました。8月6日原爆投下されました時に、ちょうど、娘が里帰りして来ておりましたので2人が、自宅玄関前で被爆しました。物凄(ものすご)い爆風(ばくふう)とともに、家は8割くらい倒壊(とうかい)し、私もガラスの破片で手にケガをし、娘とともにただ呆然(ぼうぜん)としておりました。そのうち、ヤケドした人、ケガをした人々が、ぼろぼろになって帰って来られました。幸いに、娘・雪子は無事でしたが、壊れた家は手の付けようもなく、途方(とほう)にくれていましたところへ、主人が呉から3日間の休暇をもらって帰って来ました。その晩は家に寝る事が出来ず、草津の山にあるお寺に泊めてもらいました。

 

翌日、主人と娘と3人で、婿(むこ)の守の消息を尋ねて、基町(もとまち)の二部隊まで行こうと思い天満町(てんまちょう)まで行きましたが、あまりにも凄惨(せいさん)な情景に目を覆(おお)うばかりでした。人の顔も判別(はんべつ)出来ず、馬が半焼(はんしょう)となり体から煙が出ており、道路は死骸(しがい)の山で、歩く事も出来ません。あまりの悪臭に耐(た)えられず、気分が悪くなり、3人とも、途中から引き返しました。あとで知った事ですが、守は、8月6日、二部隊で、原爆投下と同時に即死(そくし)だったそうで、後日、軍隊から遺骨をいただきました。

被爆後の生活

婿の守が被爆死しましたので、子どもがいなかった雪子を家に引き取り、主人も復員して来ました。それまで、物資不足で中止していました蒲鉾の製造を再開し、生活をしました。その後、雪子に再婚の話があり、村山広に嫁(か)し、千江子・俊介と2人の孫が出来ました。広が転勤となり、横浜市に行きました。

 

昭和30年、主人が心臓痲痺(しんぞうまひ)で死亡した後、40歳から51歳まで他の蒲鉾店で女工として働きましたが、被爆後は体も弱くなり、その後9年間ぐらい、ぶらぶらしておりました。生活費を得るため、仕事場を改造して間貸しをしたり、主人の年金で生活しました。60歳ころからだいぶ体調が良くなり、64歳まで、広銀本店の掃除婦となり働きました。

 

昭和54年、雪子が横浜の病院で肺癌(はいがん)で死亡してからは、この世の中の何もかも嫌になり、生きる張りも無くなりました。岡山県には姉と妹がおり、婿の広や孫も2人おりますが、だれにも頼る気持ちになれず、体も不自由になり淋しい日々を送っておりました。

長く苦しかった日々

昭和48年ごろ、仕事ができなくなり、将来を考えて非常に悩みました。婿や孫たちにもずいぶん援助してやったのですが、どういうものか気が合わず、姉妹も高齢(こうれい)で頼りにならず、行先の事を思って心細くなっていた時、原爆養護ホームの話をきき、入所させてもらう決心をして、民生委員の方にお願いしました。家も家主に差し上げる様な気持で安く手離しました。

 

昭和54年6月、原爆ホームに入所。最初こそ、団体生活のむつかしさにまごつき、つらい思いもしましたが、最近では、なぜもう少し早く決心して入所しなかったかとさえ思えて、被爆後の長く、苦しかった日々を振り返っております。現在の心境は、1日でも元気で長生きをしたいと思い、感謝の気持でいっぱいです。

植村チトセ(74歳) 記

被爆地
草津東町(くさつひがしまち)・自宅の屋外(爆心地より4.1km)
当時の急性症状
手にガラスで負傷
近親者の死亡
娘の婿(むこ)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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