17.甥を探し求めて

不安な夜

家族は、母、姉、陸軍中尉(ちゅうい) の義兄(ぎけい)、陸軍士官学校の甥(おい)、広島市立中学校の甥の6人家族で、宝町(たからまち)中央通に住んでいました。私は自宅で「タイプ」の印書をしたり、教えたりしておりました。姉は陸軍病院に納品する医療機関の会社に勤めておりました。

 

昭和20年8月5日の夜空襲警報(くうしゅうけいほう) の発令、解除が2度・3度と繰り返し続きました。そのたびに2階から階下に上がったり下りたりで、くたくたで不安な夜であり、家族全員、特に甥は疲れきっていました。

姿なき甥

姉は勤め先の竹屋町(たけやちょう)に出勤し、下の甥は体の不調を訴えながら学校に登校しました。みんな勤めに行ってから空襲警報が発令されましたが、まもなく解除となりましたので、母は家の風呂場のスダレを下げておりました。私はハガキをポストに投函(とうかん)して、家に帰って座敷の真ん中に座ったところ、異様な物凄(すご)い閃光(せんこう)を見受け、大きな音がしてから、家はぐらぐらと倒壊(とうかい)して棟(むね)・柱・天井(てんじょう)・壁など、私はその下敷きになり、気を失っていました。

 

ものの30分くらいしてようやく気がつきましたが、頭から血が流れております。“お母さん”と呼びましたが、母もひどく腰を打って立てなくなっております。しばらくして姉が勤め先から帰ってきました。姉も勤め先の2階事務室から落ちて、背中を打撲(だぼく)してとても痛そうなので、姉は母をおんぶして3人で家を出ました。霞町(かすみまち)の兵器廠(へいきしょう) まで逃げましたが、そこにはたくさんのケガをした人が収容されていました。その後、兵器廠の広場まで兵隊さんに運ばれて、そこで傷の治療を母、姉、私、3人で受け休んでいましたところ、黒い雨が降ってきましたが、あまり長くは降りませんでした。

 

その晩は兵器廠の広場で、兵隊さんからフトンやカヤを借りて休むことにしました。下の甥がどうしているか心配でしたが、どうすることもできず夜を明かしました。家が倒れたとき受けた頭の傷、腰打撲の痛みがひどくて仕方がありません。母、姉も同様でした。

 

8月8日、姉と私は母を兵隊さんにお願いして、甥を探しに家に帰ってみましたが、家は全焼して隣近所も全部焼けてしまって、どこがどこやら全然分かりませんでした。甥の在学していた横川町(よこがわちょう)の市立中学校をたずねましたが、学校も焼けて調べることも出来ません。その日は帰りました。それから毎日、姉とともに探し求めましたが、とうとう姿も遺骨(いこつ)も探すことができませんでした。ちょうど同じくらいの男の子がたくさんケガをして水をくださいと叫んでいました。その状況を見るとき、目をおおいたくなるようでした。甥はとうとう、私たちのところにはかえりませんでした。姿なき甥は、私にとって一生忘れることができません。

 

繰り返す入退院

私たちはいつまでも兵器廠の救護所(きゅうごしょ) にいるわけにはいきませんので、姪(めい)の学校友だちの安芸郡(あきぐん)府中町(ふちゅうちょう)のお宅にお世話になることにして移りました。そこで3人が生活をしていきましたが、食べることで苦労を続けました。そのうち士官学校に行っていた甥と、義兄が復員(ふくいん) してきましたので大助かりでした。義兄は前に勤めていた中国電力に復職して尾道(おのみち)営業所長として、姉、甥ともに移転しました。母と私はこれ以上、姪の友だち宅でお世話になることができないので、安芸郡海田町(かいたちょう)の知人のところの離れ家(や)を借りました。そこで編み物を教えて生活しておりました。

 

そのうちに元勤めていたNHKの海田町の職員寮に人手(ひとで)がないので勤めないかと言われましたので、寮に勤めるようになりました。NHKに戦前勤務されて外地(がいち)出兵された方々が、復員されて寮に入所されます。私の叔父(おじ)・叔母(おば)・姪(めい)・甥等のことが気になって仕方がありませんでした。叔父さんは学校が倒壊(とうかい)、亡くなったことを聞きました。涙がこぼれて仕方がありません。また、1番上の姉も革屋町(かわやちょう)の家の下敷きとなり、そのまま分かりません。今思い出すと悲しいことばかりです。

 

私は、昭和39年におなかが大きくふくれて、口から食べた物を嘔吐(おうと)するので、日赤病院や大学病院に通院していました。今中外科にて診てもらったところ腸閉塞(ちょうへいそく)と診断、ただちに入院手術をして4年間入院生活を続けました。だいぶよくなったので退院して、自宅で静養しておりましたところ、また、体の調子が悪くなったので、原爆病院で診察してもらったところ、貧血症で相当ひどくなっており入院しました。1年くらいして退院し、また悪くなり、入院・退院をたびたび繰返し続けていました。

ホーム入所前後

 

原爆病院で入院を続けていたところ、昭和45年9月に、先生から原爆養護ホームが開所するから、入所したらと勧(すす)められたので入所することに決めました。もうだめだと言われたこともありますが、今日まで病気と戦いながら生きながらえさせてもらっていることを感謝しております。

蔵元 スミ子(75歳) 記

被爆地
宝町、自宅の屋内(爆心地より1.3km)
当時の急性症状
下痢(げり)が2週間続き、髪の毛が全部抜け、頭部の切傷1ヶ月くらいの治療を要した。
近親者の死亡
中学生の甥・薫、勤労奉仕中(きんろうほうしちゅう)