9.電車の中で被爆

生いたち

私は広島県山県郡(やまがたぐん)安野村(やすのそん)槇ケ原(まきがはら)で、父・岩田裕太郎、母・キクの間に、6人兄弟の次女として明治43年9月1日に生まれました。うち1人は小さい時に死亡し、弟1人と妹3人は、無事(ぶじ)に成長いたしました。

 

両親は農業を営み、生活をしておりましたが、私が15歳のころに、父が相場(そうば)に手を出し大失敗して、土地も家も売り払い広島に出て参りました。観音町(かんおんまち)で借家住いをし、広島放送局の小使(こづかい)さんをしながら、生活しておりました。

 

当時私は、白島九軒町(はくしまくけんちょう)の木岡大作という海軍将校 (しょうこう)の家に1年半、その後、京橋町(きょうばしちょう)の花田屋という商家に住み込み女中(じょちゅう))として3年くらい働きました。20歳の時に、ひとつ年上のタクシー運転手をしていた上岡三郎と結婚し、6年間一緒に生活しましたが、主人があまりにも道楽(どうらく)をするので離婚いたしました。昭和12年27歳の時、18歳年上の山田元次郎と結婚し、千田町(せんだまち)にある甲三三菱の広島出張所で、夫婦ともに住込み勤務をしていました。昭和20年戦争が激しくなるにつれ、この事務所が閉鎖(へいさ)されましたので、5月に親類をたよって、佐伯郡(さえきぐん)下水内町(しもみのちちょう)同原(どうばら)に疎開 (そかい)しました。

私と家族の被爆状況

昭和20年8月5日に広島に出て来て、妹の家に泊り、6日の朝、千田町電停から満員の電車に乗りました。己斐(こい)停留所の近くまで来た時に、激しい光に飲み込まれたような気分がし、物凄(ものすご)い破裂音がして目も見えず、呼吸も止まったような気持でした。長女の泰子を背負い、電車の中から無我夢中(むがむちゅう)で逃げ出し、裸足(はだし)で人の後について行きました。ところが、高須(たかす)の辺りで2度も敵機来襲(てっきらいしゅう)しましたので、茄子(なす)畑の中に避難(ひなん)し、後から来たトラックに乗せてもらおうと思いました、けれどケガ人やぼろくずのように焼けただれた人がたくさん乗っておられるので、とても同乗(どうじょう)させてもらうどころではありませんでした。裸足で足の裏は焼けるように熱く、道路に転がっていた古草履(ふるぞうり)をひろって履(は)きました。背中の子どもは泣き疲れて眠り、私も足が棒のようになり、日も暮れかけて途方(とほう)にくれていました。五日市八幡(やはた)の民家に頼んでみたら、「一晩泊めて上げましょう」と言われ、地獄(じごく)で仏に出会ったような気持でした。食物も少しいただき、こころより嬉しく思いました。

 

翌日はまた、朝早くから歩き続けて、7日の夕方、やっと水内町(みのちちょう)にたどり着きました。8月6日主人は私の事を心配して、長男を背負って、広島市に出て、火の中をほうぼうを探して歩いたそうです。

 

1番下の妹は海運局に勤めていましたが、6日の朝、宇品(うじな)で被爆し、頭部に2ヶ所も穴があいたようなケガをしておりました。12日水内村の私のところへ訪ねて来ました。しかし、大した手当(てあて)も出来ず、16日の朝死亡、本当にかわいそうな事をしました。下から2番目の妹は、流川(ながれかわ)の放送局に勤めていましたが、建物が倒壊(とうかい)してその下敷きとなり、生き埋めとなったが、やっと這(は)い出し、泉邸(せんてい)の裏の川に3時間ばかり漬(つか)っていたそうです。これも私の疎開先に来ましたが、それが原因でありましょうか、長い間病気がちでしたが、49年大阪で亡くなりました。

 

長女の信子は、終戦後、頭に大きな腫(は)れものができて、たくさんの血やら膿(うみ)が出て田舎(いなか)の医師にかかりましたが、薬も不自由で手に入らず、ただ診察してもらうだけの状態で困りました。今でもその傷(きず)の跡が残っております。

被爆後の生活

終戦後は広島に帰って、主人とともにいろいろな仕事に就き、他家の手伝いや失業対策事業にまで出て働きました。主人も次第(しだい)に体が弱くなり、昭和41年に市役所にお願いし、原爆養護ホームに入所させていただきました。私も原爆後遺症の神経性難聴(なんちょう)で耳が遠くなり、昭和50年ころからは左眼白内障(はくないしょう)で、仕事が出来なくなりました。千葉県の郵便局に勤務しております長男の信のところに行ったりしましたが、信が離婚し、子どもも嫁が連れて帰っている状態でおりづらかったものです。広島市庚午町(こうごまち)の泰子の婚家先で孫の守りをしていましたが、家も狭く気がねもあり、原爆養護ホームに入所する決心をしました。

ホーム入所前後

53年1月17日養護ホームに入って2日目の1月18日、夫・元次郎は長く寝たきりの生活でしたが、舟入病院長や、ホームの皆様方の手厚い看護もむなしく、永眠(えいみん)いたしました。

 

思えば長く苦しい生活が続きましたが、現在では何の不自由もなく、楽しい日々を過させていただき、感謝の気持でいっぱいでこの平和の日々の続く事を願っております。

山田マサコ(70歳) 記

被爆地
己斐町・電車の中(爆心地より3.0km)
当時の急性症状
特に異常なし
近親者の死亡
妹が頭部負傷にて死亡




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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