7.爆風の土煙りの中で

生い立ち

私は安芸郡(あきぐん)温品村(ぬくしなむら)で、明治32年8月11日、父・古山武夫、母・マキの、長女として生まれ、兄が4人、妹が1人で7人兄弟でした。

父は小学校の校長をしておりました。子どものころはわりと、平凡ながら幸福な生活で、広島女学院を卒業後、家事の手伝いをしておりました。大正10年22歳の時、天津(てんしん)の綿花製造会社に勤務していた戸田幸作と結婚し、男子2人を出産しました。

 

昭和3年、主人が急性肺炎で死亡し、6歳と、3歳、2人の子どもを連れて内地(ないち)に帰り、大阪の洋裁学校で3年間勉強。広島で双葉洋裁学校を創立しましたが、3年後に、いろいろな事情で逓信局 (ていしんきょく)に勤(つと)めるようになりました。

 

昭和16年長男が北支 (ほくし)で戦死し、祖国の英霊(えいれい)として祀(まつ)られましたが、苦労を重ねて育てた子ども、母としては断腸 (だんちょう)の思いでございました。

被爆時の状況

昭和20年、戦争も次第に激しさを加えてきました。当時は、昭和町(しょうわまち)から逓信局に通っておりましたが、通勤の途中も危険になってきましたので、少しでも近い所へと思い、白島町(はくしまちょう)の福田様方の2階へ単身間借りをし、家族は全員温品村の私の実家に疎開(そかい)させました。

 

8月6日、原爆投下された時刻には、ちょうど家の中におりましたが、ピカ!!ドーン!!大爆発音とともに、2階がぐらぐら揺れだしたので縁側(えんがわ)に飛び出したとたん、家が倒れて下敷となり、意識不明となり、気がついた時には、身の回りは、真暗闇でありました。無我夢中(むがむちゅう)でもがいた拍子(ひょうし)に、天井(てんじょう)のあたりに穴があきましたが、土煙で呼吸も苦しく、あえぎながら、くずれ落ちる物音とともに外に飛び出しました。

 

あたり一面のガラスの破片に足を取られながら、逃げ出す途中で、声をかぎりに、「助けてくれ」と叫んでいる人を連れて、長寿園(ちょうじゅえん)に避難(ひなん)しました。しばらく休んで水源地(すいげんち)まで行き、見も知らぬケガ人をおぶったり歩かせたりしながら、やっと夕方ごろに戸坂(へさか)小学校の治療所(ちりょうしょ)に連れて行き、傷の手当を受けさせました。その夜は農家に泊まらせてもらい、翌朝、逓信局に帰り歳入事務(さいにゅうじむ)につきました。

被爆後の状況

8月7日の朝から、逓信局に行き勤務につきましたが、1週間ぐらいしてから、体の方々に紫斑(しはん)が出来て、次々頭髪が抜け落ち、高熱が出るようになりました。1週間目に、逓信病院に入院しましたが、たくさんのケガ人や原爆症の方々で埋(うま)っておりました。お灸(きゅう)を据(す)えると白血球が増えると聞き、同室者同士で灸療法もいたしました。

 

40日くらいで体調快方に向い、50日くらいで退院し、しばらくの間、逓信病院に勤めました。逓信病院を退職してからは、それこそ、いろいろな所で働きましたが、原爆症の後遺症(こういしょう)のため体調悪く長続きしませんでした。

 

昭和32年貧血のため、市民病院へ入院し、同年12月24日顆粒球(かりゅうきゅう)減少症で認定されました。退院後も週1回の通院を続けておりましたが、48年月ころより時々心臓発作(ほっさ)がおきるようになりました。

命かけ核廃止を願う

長男は戦死し、次男夫婦に世話になっておりましたが、孫を入れての6人暮しで、家も狭く、他の事情もありまして、昭和48年10月25日、市役所のお世話で原爆養護ホーム に入所させていただきました。

 

思えば、大東亜戦争(だいとうあせんそう)の勃発(ぼっぱつ)以来、長い年月の間に、両親、兄弟、長男と次々に死別(しべつ)しました。温品の実家にいる兄の巌と、明石市(あかしし)にいる妹の中村みどりと3人だけとなった淋しい人生を振り返り、体調も悪く、眠れぬ夜が続いておりました。原爆養護ホームに入所しましてからは、何から何まで行き届いた処置(しょち)で、俳句・造花・お習字等、色々なクラブに入り、幸福な日暮しをさせていただき、何の不満もなく、感謝の日々を送っております。次男夫婦も、孫たちも、休日にはたびたび慰問(いもん)に来て、孝養(こうよう)ぶりを発揮(はっき)してくれますが、ただひとつ、あの恐ろしい原爆投下の事を思いますと、私の体や心の傷(きず)が痛みます。最後に、いまわしい核の廃止を、命をかけて、全世界の方々にお願い申し上げます。

戸田 照美(81歳) 記

被爆地
西白島町(にしはくしまちょう)・居宅の屋内(爆心地より1.7km)
当時の急性症状
発熱、脱毛、体の方々に紫斑が出来た。(原爆症)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

Some Rights Reserved


Hiroshima Speaks Out

URL : /

お問い合わせ : コンタクトフォーム