8.一人息子と被爆して

生いたち

私は、父・河上太郎、母・ツチとの間に長女として広島己斐町(こいまち)で生まれました。3人兄弟で、兄1人、弟1人の3人でした。私の生まれころ、私の家は植木、花の栽培を家業としておりました。己斐小学校を卒業し、近所の和裁(わさい)の先生について2年間、習いました。家で、この和裁を6年くらい続けました。そして、22歳の春結婚しました。しかし縁なく、半年間くらいで離婚し実家に帰りました。実家では、和裁や花作りをしておりました。

38歳の時、佐伯郡(さえきぐん)宮島町(みやじまちょう)の梶川次郎と結婚しました。夫・次郎は、結婚して4ヶ月くらいして、広陵(こうりょう) 満州開拓団(まんしゅうかいたくだん) の指導員となり、単身渡満(とまん)しましたので、私は実家に帰りました。実家での私は、弟嫁と和裁を、母と花作りをして生活しました。翌年に長男・強が生まれました。そのころ、弟は、近畿電気KKに勤務中でしたが、会社の都合(つごう)でジャワに派遣(はけん)され、赴任(ふにん)して行きました。あとは、女、子どもの6人が残りました。

真黒い雨

昭和20年8月6日は、朝からよく晴れておりました。当日、己斐の実家には、母と弟嫁と私、私の子、弟の子、計5人がいました。母と弟嫁は、代用食(だいようしょく) を作るのに臼(うす)で粉をひいておりました。弟の子がこれを邪魔(じゃま)するので、母が私に「子どもを連れて郵便局にゆきなさい。今年は梶川の本家(ほんけ)の初盆(はつぼん)だから、仏のお供えにお金を送んなさい。」と言ったので、私は弟の子を背にさっそく家を出て己斐郵便局に行きました。

私は、この郵便局で、原爆にあったのです。局の窓口で送金のため現金を差し出したと同時に被爆。局の天井(てんじょう)が落ちて、中ぶらりんになりました。私はびっくりして、弟の子を背中に負ぶったまま、その場にうつぶせになりました。そのうち局長さんが、「もうおさまったらしいから、帰りなさい。」と言われて外に出ました。道路に出てみると、原爆のため行き倒れになった人たちが、道路の両側にしょうぎ倒しになっていました。この中を私は、子どもを背負って走るようにして家に帰り着きました。

帰ってみると、臼引きをしていた母は、爆風で炊事場に投げ出され、顔半分が打撲(だぼく)のため紫色になっており、身体のあちこちが傷だらけでした。私たちを心配して、途中まで迎えにきてくれた弟嫁は、無傷でした。私の子は1人で寝かせていたのですが、このころ夫婦で2階に下宿していた男の人が抱きかかえ避難(ひなん)してくれていたので無事でした。弟の上の子は当時小学校2年生で、学校から避難中で無事でした。家は窓ガラスが全部こわれて、1階8畳の天井が落ちておりましたが、ふと外を見ると、あたり一面真黒い雨が降っておりました。せっかく、洗たくした衣類に黒いはん点が出来て、困ってしまいました。さっそく取り入れて洗たくをし直しましたが、このよごれはどうしても落ちませんでした。今考えると、何年たってもそのよごれは落ちなかったように思います。ようやく家の中を片付けて、その日寝ることだけはできました。

食べることで頭がいっぱい

被爆直後、私はどうしてよいかわからずしばらく呆然(ぼうぜん)としておりましたが、気をとり直して、母と弟嫁と3人で家の回りから片付けを始めました。特に小さい子どもたちがいるので、ガラスの破片が散乱しているのが一番気がかりでした。小さい破片まで1つ1つ手で拾いました。こうして1ヶ月近くかかって片付けたくらいです。

それから、何といっても、食べることが一番です。それからというもの食べるということで頭がいっぱいでした。さっそく、家の周囲の花畑のほとんどを、食べものの畑にしました。ジャガイモ、高粱(こうりゃん) 、麦などを植え付けました。原爆による外傷のなかった私は、元気をだして食べものの買出し(かいだし)に遠くまで行きました。己斐峠を越えて、佐伯郡(さえきぐん)石内村(いしうちむら)へ、また、北へ入って安佐郡(あさぐん)安村(やすむら)へと親せきや知人をたずねて、食べものを足の続く限り歩き求めました。買出しに行ってもお金は役に立ちません。母、弟嫁、私の着物を出し合って、それを持って行って、お米やイモ等食糧と交換してもらいました。

1度や2度ではありません。子どもたちを大きく育ててやりたい一念で、私たちは、たくさんあった着物をつぎつぎと食べものにかえて、当時をしのいだものです。こうして、私の乳飲み子や、育ち盛りの弟の子1家6人が命をつないだのです。母は、21年8月被爆後1年で亡くなりました。

昭和28年4月25日、主人は舞鶴(まいづる) 引き揚げ帰って来ました。その元気な姿をみて家内中(かないじゅう)安心しました。私たち一家は主人が帰って来たのを機に、翌5月に市内庚午町(こうごまち)の引揚住宅にうつり住みました。主人は、帰ってきて、道路工事の仕事につとめ出したのですが、3ヶ月くらい働いて、とうとう病に倒れました。その後、脳に腫瘍(しゅよう)が出来て、10年間くらい病院にかよいました。それで私は、広島市の失対(しったい) 作業員として毎日のように働きました。そのころ、日曜、祭日の休みの日は、町内の植木屋の草取りなどをして稼(かせ)ぎました。通院していた主人はだんだん病状が悪化し、広島市古田町(ふるたまち)の力田病院に入院しましたが、昭和39年1月15日、59歳で死亡しました。そのころの私は、主人は病気、子どもは小学校で、3人で暮らすのに女手(おんなで)1つでたいへんでした。このころ、実家の弟嫁が心配してくれ、毎月のように米や薪(まき) を買って来て援助してくれ、大助かりでした。やがて長男も就職し、嫁をもらい、長い長い間の辛(つら)い日がどうにか明るくなってきたような気がしました。

心の痛みは消えず

私も市の失対作業員を65歳で定年退職し、家を出て、どこか老人ホームに入ることを決心しました。広島市役所に相談に行き、佐伯郡(さえきぐん)佐伯町の町立心和寮に入りました。入園して1ヵ月後のある日、草取り作業中、高いところから転落して、全身打撲症(だぼくしょう)になりました。この全身打撲が原因で、広島原爆養護ホームに入所することになりました。その後、この全身打撲によるいろいろな病気が出て、入所以来原爆病院に通院しておりました。

私は、ホームに住んでいて毎日思います。今日もまた、身体がふるえたり、頭痛がくるのではないかと…。しかし、人にはわからないので、出来るだけ朗(ほが)らかにするよう心掛けております。そして食事のことですが、出された食事が毎日毎食、半分くらいしか食べられないのです。私には、食べることのしあわせがなくなったのかと思うことがあります。原爆投下の当時を振り返りますと、私自身、外傷こそなかったのですが、心の痛みはいまだ消えておりません。当時の郵便局の帰途(きと)、この目で見た悲惨(ひさん)な状態を、私は一生忘れることができません。

梶川ミチ(74歳) 記

被爆地:
己斐町・己斐郵便局内(爆心地より2.5km)
当時の急性症状:
なし
近親者の死亡:
兄嫁の弟が己斐町で被爆死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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