阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

3. 満身創痍

実家には二人の姉の家族が嫁ぎ先から帰ってきていました。上の姉は呉に嫁いでいましたが、空襲で家を焼かれ、姑さんと子ども二人で母屋の座敷を使っていました。下の姉はお産のために子ども3人と共に帰省していて、納屋の二階に住んでいました。仕方なく私は姑と住んでいた家に戻ることになりました。毎日母と身重の下の姉が世話をしに来てくれました。上の姉は5人の子どもたちの世話や総勢10人にもなった家族の家事を担ってくれていました。役場からは、薬代わりに油5合が支給されました。またジャガイモをすったものが火傷にいいと聞き、母は毎日新鮮なジャガイモをすって持ってきてくれ、それを塗ってくれました。9月の初旬くらいからは下痢や脱毛、高熱という放射線障害が始まりました。また屋根から飛ばされた時に左側が下になったのでしょう。その時は気づきませんでしたが、左耳の鼓膜が破れ、全く聞こえなくなっていました。

私は右側から直接熱線を浴びたため、体の右側にひどい火傷を負いました。顔は右眉から首にかけて、腕は半袖のシャツを着ていたので、その袖の下から指の先まで、右足も紺色のモンペをはいていましたが、その下に火傷を負っていました。右目はケロイドで皮膚が引きつっていたので、長い間、目を閉じることができませんでした。寝るときも目を開けたままで、絶えず埃が目に入ってきました。また頬の皮膚と顎の皮膚がケロイドのため硬直し、口をうまく閉じることができず、何か食べてもダラーッとこぼれ落ちてしまいました。9月の半ばになって、ようやく座ることができるようになりました。何度も立つ練習をしようとしましたが、その度に膝の後ろのケロイドになった皮膚が裂けて出血し、痛みで立つことはなかなかできませんでした。

家族は醜い顔になってしまった私を不憫に思い、家中にある鏡を隠していましたが、9月の初め頃だったと思います、たまたま家に誰もいなかったことがあり、這って鏡を探しました。どんな風になっているのか、一度見てみたかったのです。鏡を見つけ初めて自分の顔を見ると、顔は真っ赤に腫れ上がり、目は引きつった皮膚に引っ張られ、まるで赤鬼のお面のような形相でした。それは想像をはるかに超えていました。あまりの醜い姿に毎日毎日泣いて暮らしていましたら、父がぎゅっと抱きしめてくれて、

「いっそのことあの時死んでいたら、どんなに楽だっただろうに。」

と一緒に泣いてくれました。私も何度もあの時死んでいた方がよほどましだったと思ったものです。

9月17日には昭和史に残る大きな台風、枕崎台風が広島を直撃しました。広島市内では、原爆で何もなくなり、平らになっていた土地に、山から土砂が流れ込み、ようやく建てられたバラックを流してしまったと聞きました。姑と住んでいた中野の家も床上浸水し、一階は住めなくなり、姑が二階に住み、私は実家に戻ることになりました。実家では母屋は上の姉家族が、納屋は下の姉の家族がすでに避難してきていたため、私は蔵の二階を片付け、寝かせてもらうことになりました。まだ歩けませんでしたから、大八車に乗せられ実家に連れて帰ってもらい、二階へは誰かにおぶわれて上がりました。

実家

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