阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

7. 被爆者救済を求める国会請願行動

同じ町に、ご自身も被爆者で、爆心地近くの自宅で妻と娘さんを亡くされた檜垣益人さんという方がおられ、海田町に住む被爆者の名簿を作ろうとしておられました。私も檜垣さんや2,3人の仲間で家々を回り、被爆者を探すお手伝いをしました。檜垣さんのご尽力のおかげで、海田町にはしっかりとした被爆者組織「海田町原爆被害者の会」ができました。1968年には海田町に住む240人の被爆者の証言をまとめた「被爆者懇談集録」を出版しました。私は1995年から2007年まで会長を務めましたが、残念なことに私が最後の会長となってしまいました。被爆者が高齢化し、後を継いでくださる方がおらず、やむなく会は解散となりました。被団協からは、二世の会を作ってほしいというお話もありましたが、私たちは自分たちと同じ差別を子ども達に引き継がせたくないという思いから、二世の会を作ることには否定的な立場を取りました。

被爆から10年ほど経ったころに、檜垣さんから、国会に被爆者の救済を求める請願書を出すために、他の被爆者と一緒に東京へ行きませんかというお誘いを何度も受けました。家族は反対しましたが、被爆者の姿を見てもらい、救済をお願いしたいという気持ちになり、東京に行く決意をしました。1956年の3月、就学前の次男を連れて夜行列車に乗りました。午後2時広島駅出発の列車が東京に着いたのは、翌日の午前9時でした。東京駅には大勢のマスコミの方々や国会議員が出迎えに来ておられました。

東京に陳情に行ったメンバーと

選挙区別にグループになり、国会議員のお宅に直接伺うことになりました。私たち安芸郡から来たグループは、当時大蔵大臣をしておられた池田勇人氏のお宅にお邪魔しました。池田大臣は私たちの話を真摯に聞いてくださり、

「今度はちゃんとした組織を作っておいでなさい。」

と言われました。その言葉が被団協(全国原爆被害者協議会)の結成を後押ししてくれたのです。この2年前の1954年にアメリカの核実験のためにビキニ環礁近くで被爆した第五福竜丸事件があり、全国的に原水爆に対する反対の機運は高まっていました。1955年には広島で第一回原水爆禁止世界大会が催されました。池田氏の言葉に一念発起した私たち被爆者は、それまで全国各地にバラバラにできていた被爆者の会を一つにまとめることにし、1956年8月、全国被爆者団体協議会を結成したのです。

また池田氏は、

「日本はアメリカに弱いからね。」

とぽつりと漏らされました。その言葉を聞いた時、私はアメリカに気兼ねして被爆者はこれまで放置されてきたのだと感じました。その後、東京に出向いた全員で当時首相だった鳩山一郎氏の家に行きました。鳩山氏はあいにく留守でしたが、奥様が私たちの話を熱心に聞いてくださいました。

東京での請願も思ったようにうまくいかず、むなしい気持ちで帰路につきました。夜行列車の中で、

悲しみに 苦しみに

笑いを遠く忘れた被災者の上に

午前10時のひざしのような あたたかい手を

生きていてよかったと

思いつづけられるように

という詩が浮かびました。正午のような日差しでなくても、せめて午前10時くらいの暖かさを被爆者に与えてほしいという気持ちからでした。この詩は、のちに曲がつけられ、あちこちの集会で歌われるようになりました。長崎で催された原水爆禁止世界大会に招かれた時には、演台に大きく貼り出され、会場の聴衆のみなさんと一緒に歌いました。

この詩に曲がつけられ、各地で歌われた

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