阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

11. ヨーロッパ・ソ連へ

東海岸では、ニューヨークやワシントンDCなどを訪問し、これまでと同じように被爆者それぞれ異なる会場に赴いて証言を続けました。ニューヨークで、アメリカを回るだけで用意していた資金が尽きてしまったという話を耳にしました。しかしバーバラさんはヨーロッパへの巡礼を続ける決意をしたのです。どのようにして資金を調達したのか当時は分かりませんでしたが、後にバーバラさんが親から受け継いでいた遺産をすべて使い果たしたのだと聞きました。

6月12日にアメリカを後にして、次に訪れたのはイギリスです。イギリスでは2~3カ所で証言しました。そしてフランスに渡りました。私はフランス滞在中、ずっと一軒の家にステイさせていただき、そこから数か所の会場に出かけました。そのうちの一つは競馬場の一角にステージが設けられていて、ほんとにびっくりしました。フランスから西ドイツに入り、さらに東ドイツに向かいました。東ドイツでは、ベルリン郊外にある戦争中ユダヤ人を収容していたザクセンハウゼン強制収容所に案内されました。ここでは20万人以上が収容され、そのうち11万8000人が虐殺されたと聞きました。私たちは、ユダヤ人を殺したガス室、絞首刑台、生きたままの人間を解剖した解剖室、火葬場、監視塔などを案内されましたし、殺された人々の毛髪や靴が山積みされている展示も見ました。原爆もそうですが、人間がどうしてここまでひどいことをすることができるのかと、あまりの残虐さに言葉もありませんでした。

東ドイツから、ソ連に入りました。ソ連では常に全員が一緒に行動していました。ある会場で次々と被爆証言をしていましたら、どうして男性ばかり証言するのか、女性は証言しないのかと言われました。私たち日本人にとって、ごく普通の「男性の方、先にどうぞ」という風習ですが、共産圏の方には奇異に映ったのでしょう。ヨーロッパ、ソ連でも人々は熱心に耳を傾けて下さいました。ただ共産圏の人々は、どこに行っても、

「私たちは核兵器が恐ろしいものであるということは分かっています。でも西側諸国が開発を続ける限り、私たちもやめる訳にいかないのです。」

と言われました。西側諸国でも同じような言葉が聞こえました。冷戦ただ中であるとはいえ、東西両陣営の双方が、核兵器を持つことで今の平和が保たれていると信じていました。いったん核戦争が始まれば、この地球はこのままではありえないのです。たった一発で数十万という人間が命を奪われます。たとえ生き残ったとしても、本人はもとより、子孫にも影響を与えるのです。報復が新たな報復を呼び起こし、際限のない地獄のような放射能汚染の世界が待っているだけなのです。私はとても悲しい気持ちになりました。

モスクワからハバロフスクへ飛び、そこからシベリア鉄道でナホトカまで行き、そこから船に乗って横浜まで帰りました。横浜に着く3時間ほど前になると、海の色が急に変わりました。その時は不思議に思っていましたが、後で公害のために日本近海が汚染されているからだと聞かされました。

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