阿部 静子 Shizuko Abe

「原爆の生き証人」として生きて

4. 夫の復員

夫三郎は、結婚のための帰国から満州に戻ってまもなく、南方に転戦を命じられました。送られたのはトラック環礁でした。ここは日本海軍によって絶対国防圏の拠点に決められ、南方戦線の拠点になっていました。環礁の中に多数の小さな島があり、船を隠すのに適していたのです。ところが1944年2月17・18日の二日間にわたり徹底的に米軍の攻撃を受け、軍用船、補給船のほとんどが沈没し、死者も7,000人を超えました。米軍はこの二日間の攻撃の後、トラック環礁は主要基地としてはもはや機能しないと判断し、攻撃目標から外しました。しかし残された日本兵約15,000人は補給路を断たれ、その後飢えに苦しみました。夫も復員するまでこの環礁の中のエンダビ島という小さな島にいたそうですが、食べることに事欠いたと話していました。夫は1945年の暮れ、12月30日に復員してきました。

三郎

私は実家に夫が迎えに来てくれても、ちっとも嬉しくありませんでした。体中に包帯をグルグルに巻いていて、ミイラのような醜い姿を見られたくなかったのです。父も、

「嫁に出すときは、普通の娘でしたが、今は原爆ですっかり変わってしまいました。どうぞ娘を離縁してやってください。」

と言ってくれました。ところが夫は、

「私は戦地で無残な姿で亡くなった戦友をたくさん見てきました。自分もいつ足や手を失うか分からない状況にいました。でもたとえ障害を負っても、日本に帰れば嫁が面倒を看てくれると信じ、心の支えとしてこれまで頑張ってきました。ですから嫁がどのような姿であっても、自分が面倒をみます。」

と言ってくれたのです。姑はそのような息子を見て、

「この子はバカじゃないの!」

と言っていました。

このような醜い姿になってしまった私を離縁もせず連れ添ってくれた夫には、心から感謝しています。また夫は大阪育ちでしたが、満身創痍の私のためを思って実家のある広島で暮らすことにしてくれました。

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