川本省三 Syoso kawamoto

原爆孤児を忘れないで

2.原爆投下から枕崎台風

8月6日

 8月6日も、朝学校に行く前から、芋を植えるために畑づくりをしていました。ふと目を上げると空が異常です。広島市の方向に入道雲のような白い雲が、むくむくと湧き上がっていたのです。あまり見たこともない光景だったので、気になって仕方がありませんでした。「この雲の湧き方は普通じゃないぞ。」と思いました。一緒にいた友達と、「あの雲、どうしたんかのう~。」「ものすごい雲じゃのう。」などと話していました。神杉村は広島から50キロ以上も離れています。よく被爆者の方が「ピカドン」と言われているような、原爆の閃光も爆音も全く感じることはありませんでした。ただ雲の湧き方があまりにも異常だったので、何かが起こったのではと気が気ではありませんでした。夕方6時ごろに村役場に連絡があったそうで、先生方にはその後村役場から状況が知らされたようです。私たち6年生には、先生から広島に特殊爆弾が落とされたらしいという話がありました。しかし広島の街がどんな被害を受けたのか、特殊爆弾というのはどんなものか、具体的なことは全くわかりませんでした。

 翌日7日の夕方あたりから、疎開していた子どもを迎えに家族が次々とお寺にやって来ました。それは芸備線が7日には復旧したからです。しかし迎えに来た誰に聞いても、広島で何が起こったのか教えてくれませんでした。実家の近くに住むお兄さんが弟を迎えに来たので、「僕の家はどうなってますか?」と聞いてみましたが、首を横に振るばかりで、何も教えてくれませんでした。耳に入ってくる話を繋ぎ合わせ、どうやら、「特殊爆弾によって広島は壊滅した。」ということらしいのです。しかし、私には「町が壊滅する」とはどんなことなのか想像すらできませんでした。次々と家族が訪れ、友達の多くが疎開先から去っていきました。お寺にはもう十数人しか残っていませんでした。

日本銀行広島支店
撮影:米軍 提供:広島平和記念資料館

 8月9日の昼過ぎごろになってようやく、広島から5歳年上の姉・時江が私を迎えに来てくれました。姉は、原爆投下時には広島駅の構内で仕事をしていたそうです。原爆で駅舎が崩れおち、姉も下敷きになりましたが、何とか這い出たそうです。打身はあるものの、見たところケガはしていないようでした。私の顔を見るなり、言葉を交わすこともなく、「ワー」と泣き出しました。聞くと、原爆投下当日は市中心部の火災が激しく町の中に入ることができず、翌日になって、ようやく火が収まってから塩屋町の自宅に行ったというのです。町は全く何もなくなり真っ平で、目印になる建物もなく、ただ街中を走る広電の線路伝いに歩いたそうです。自宅は、原爆に耐えたコンクリート造りの建物の一つである日銀の前でしたから。見つけるのは簡単だったようです。家は完全に壊れて瓦礫になっていたそうですが、居間があったと思われる場所あたりに、3人が抱き合って、真っ黒になって焼け死んでいたそうです。顔は真っ黒で見分けはつかなかったけれど、場所から言って、母と妹、弟の3人だろうというのです。近くで救護活動をしていた兵隊さんを呼んできて、三人の遺体を焼きなおしてもらい、お骨を拾ったそうです。姉は、そのお骨を持って、天満町に住む叔父の家へ行きました。叔父の家も全焼全壊していましたが、救援活動のために広島に来ていた兵隊さんの助けを得て、7日には早くも雨露をしのげる程度の小さなバラックを建てていたそうです。

 父と女学校二年生の姉美智子は建物疎開で朝早くから家を出ていて、どこにいるのか分からないと、姉は話しました。父と美智子の動員先は聞いていなかったそうです。建物疎開というのは、空襲によって重要な建物や町全体が延焼するのを防ぐために、建物を壊して防火帯を作る作業のことで、国家総動員の体制であった当時では、自分の家を壊されると知っても、抵抗する人は誰もいませんでした。広島でも昭和19年(1944年)11月から数次にわたって実施されていました。8月1日からは第6次建物疎開が実施されており、8月6日も、中学生、女学生、地元や周辺部の義勇隊などが作業に出ていて、動員中に亡くなった学徒は6,000人近くいます。

被爆直後

 私は姉と共に、芸備線に乗って、安芸矢口という駅まで戻りました。そこから先は、まだ復旧していませんでした。安芸矢口駅から線路をつたって広島駅まで歩いて行きました。駅のホームに立って驚きました。そこからの光景は信じられないものでした。目の前には何もありません。駅から瀬戸内海の島々が見渡せるのです。以前は駅前にたくさん建物が並んでいて、瀬戸内海が見えることなどありませんでした。あたりはシーンとして物音ひとつしませんでしたし、人っ子一人いませんでした。

広島第二陸軍病院 大田川畔テント救護所 1945年8月9日
撮影:川原四儀、爆心地から1100m
提供:広島平和記念資料館

 それから姉と一緒に天満町の叔父の家まで歩いて行きました。その後、父と姉を探しに、救護所になっていた袋町国民学校に行きました。そこは講堂のような建物の焼け跡で、ゴザをひいた上に、何百人というケガ人が寝かされていました。誰一人として身動きすらしませんでした。その人たちの間を縫うように、「川本美智子はいますか?」「川本留一を知りませんか?」と探し回りました。その後、本川国民学校にも探しに行きましたが、見つかりませんでした。私はとにかく救護所の中に漂う何とも言えない臭いに気持ち悪くなってしまいました。人間の死臭、血、膿などが入り混じったような、表現のしようがない臭いでした。私は、姉に「もう嫌だ。」と言ってそれ以降は探すのをやめてしまいました。姉はその後も三日くらい一人で探しつづけました。しかし結局は父も姉も見つかりませんでした。姉はその後職場復帰しました。父と姉の消息は今もわかりません。

 袋町国民学校は、爆心地から460mのところにあり、8月6日8時15分には、学童疎開に行かなかった上級生と1年生、2年生約160人、教職員5,6人のほとんど全員が朝礼のために校庭に出ていて、原爆で即死しました。後に子ども3人が偶然建物の地下にあった下駄箱のあたりにいて、奇跡的に助かったと聞きました。広島市内の36の小学校から学童疎開で親元を離れた子どもは、8,600人余りいたと言われています。その中で身寄りがいなくなり孤児になった子どもの数は2,700人ほどでした。約700人は孤児院などに収容されましたが、残りの2000人ほどは路上に放り出されたのです。袋町国民学校の学童の中でも十数人が孤児になり路上生活を余儀なくされました。

 8月15日に天皇の玉音放送があり、日本は戦争に負けました。私はその放送を聞いてはいません。姉は職場で聞いたようで、若い女の子はアメリカ兵に強姦されるから外に出てはいけないと言われたらくし、二日ほどバラックから出ませんでした。広島に来ていた占領軍の兵士はみんな優しく、聞いていた話とは違っていました。でも私は彼らが車から投げてくれるガムをもらうことはありませんでした。昨日まで敵だった相手からもらう気にはなれませんでした。

広島第二陸軍病院 大田川畔テント救護所 1945年8月9日
撮影:川原四儀、爆心地から1100m
提供:広島平和記念資料館

 被爆直後の市中心部は臭いがひどく、人っ子一人見かけませんでした。何の音も聞こえず、まるで死の町でした。叔父が住んでいた天満町は川を挟んで被害が最も大きかった中心部から離れていたため、臭いもそれほどでもなく、まだ住むことはできました。夜になると鬼火と呼ばれている青い炎がゆらゆらと真っ暗闇の町に飛んでいました。死体から出たリン化水素ではないかと言われています。

 叔父は、市役所の厚生課長をしており、被爆直後から救護活動をしていた人たちのためにバラックを建てる仕事をしていました。援助隊用のバラックは、江波や己斐などに、隊員が自らが建てていました。バラックといっても、焼け跡から集めてきた資材や、被災を免れた製材所の材木を使い、トタン板の屋根を乗せただけの粗末なものでした。叔父は、原爆翌日には彼らにバラックを建ててもらっていて、私と姉は6畳ほどのそのバラックに置いてもらえることになりました。叔父には子がなく、夫婦と私達二人くらいは寝泊りできる広さがありました。

枕崎台風

 終戦からほぼ一か月後の9月17日に枕崎台風が広島を直撃しました。枕崎台風というのは、室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和三大台風に数えられる勢力を持つ台風でした。特に原爆で瓦礫しか残っておらず、ほぼ真っ平になってしまっていた広島では、山から押し寄せてくる水を遮るものもなく、町全域を洗い流していくほどの洪水になりました。そのお陰で残留放射能が残る表土が削り取られたのではないかとさえ言われています。全国に及んだ犠牲者、死者2,473人、行方不明者1,283人のうち、広島県内だけで、2,000人以上と言われています。しかし広島市内には、どれだけの人が原爆の後、仮説テントに寝かされていたか、橋の下などで生活していたかなどの統計はなく、市内だけで2,000人以上が亡くなられたという記述もあり、正確な数字は今でも分かりません。

 被爆直後、市内外各地の学校、寺社、企業、公共施設などが救護所に指定されましたが、負傷者が多すぎて、これらの救護所に入りきれませんでした。多くの重傷を負い、動けない人々が、あちこちの川の河川敷に仮設の救護所が建てられ、寝かされていました。救護所と言っても、支柱にロープを張り、その上にゴザをのせたもので、小屋とも呼べないようなところでした。町の中は瓦礫の山で、とてもテントをはる場所などありませんでしたし、水道が出なかったので、水が利用できる川の傍に建てられたのです。大きなものは、陸軍第二病院があった(現在の中区基町)西側を流れる太田川(現在の本川)の河川敷で、現在の平和公園の両岸(元安川と本川)に至る長いテントの仮設病院でした。その人達もほぼ全員、2000人近くいたと言われていますが、流されてしまいました。後で聞いた話によると路上に放り出された孤児たちの多くは、橋の下をねぐらにしていて、そのほとんどが氾濫した洪水に流されてしまったそうですが、彼らは死者数には含まれていません。また京都大学から原爆の調査に来ていた教授や学生10名も宿泊していた廿日市の大野陸軍病院で山津波の犠牲になりました。

 天満町の叔父のバラックは台風にも持ちこたえたのですが、それまでそれぞれ自宅にバラックを建てて住んでいた親族が、台風でバラックを流され、叔父のところに押しかけてきたのです。叔父たちは私を孤児院に入れ、姉だけを置いておくという話をしていました。姉は私を一人孤児院に入れるのはどうしても嫌だと、二人でそこを出ることにしました。姉は国鉄管理部に勤めていました。私たちは幸いにも姉の勤め先の広島駅の構内にある一室を借りることができ、そこで寝起きしました。部屋といっても従業員の休憩室を半分に仕切り、その一つに住んでいたのです。姉は毎日勤務する日々ですが、私は何もすることがないので、町中をうろつくようになりました。そこには両親を亡くし、身寄りのない孤児が多くいました。彼らと一緒に焼け跡で鉄くず拾いや吸殻拾いをしました。

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