川本省三 Syoso kawamoto

原爆孤児を忘れないで

4.姉の死後、伴村へ

姉の死

 翌年の2月のある日、姉は「今日は体調が悪いから仕事を休む。」と言って横になりました。私はそれほど心配もせず、いつものように外に遊びに出ました。その後足の豆がつぶれて出血し、その血が止まらなくなってしまったり、髪の毛がごっそり抜けてしまったりしながら、一週間で亡くなってしまいました。亡くなった日も、私はそこまで姉の体調が悪いという印象もなかったので、外に遊びに行っていました。帰ってくると姉は亡くなっていたのです。

 国鉄の職員の方が枕木を集め、姉を焼いてくださいました。その時には伴村に住んでいた伯父も連絡を受けていたのか、来てくれていました。満州に行っていて音信不通になっていた兄を入れて8人いた私の家族は、とうとう私一人になってしまいました。私はちょうど11歳になる前でした。周囲の人たちが孤児収容施設に私を入れようと尽力してくれたのですが、そうした施設は孤児たちであふれかえっていて、入ることはできませんでした。

伴村での生活

 私は伯父に連れられて父の実家がある伴村(現・広島市安佐南区)に行きました。伯父はどうしても私を引き取りたくないようで、村役場の人に孤児院に入れてくれるように頼んでいましたが、村でもすでに孤児を多く引き取っており、私を入れる余裕などありませんでした。伯父と役場の人の話し合いを聞いていた村長の川中さんが、自宅に引き取ってあげようと言ってくれたのです。川中さんの家に引き取られ、彼が経営していた川中醤油店で働くことになりました。中学にやってあげることはできないし、給料は出せないけれど、手伝ってくれたら食べさせてあげるし、ゆくゆくは家も持たせてあげると約束してくれました。私は毎日お腹いっぱい食べられることが嬉しくて、毎朝4時半くらいから醤油の仕込みを初め、一日中、牛の世話、草刈り、田んぼの株切り、畑仕事、なんでも一生懸命やりました。日曜、祝日もなく無休で10年間無我夢中で働きました。とにかくお腹いっぱいご飯が食べられたということが一番うれしかったことです。川中さんのお宅には、娘さんが一人おられましたが、ご夫婦は私を自分の子どものようにかわいがってくださいました。給料というものはもらいませんでしたが、盆、正月にはお小遣いをくれました。17歳の時、仕事に必要だからということで、運転免許を取らせてくれました。その後は月給として2000円くださいました。

18歳の頃 同窓会 (前列右から2人目)

 終戦後2年目の1947年に、満州に渡っていた兄がひょっこり伴村の伯父のところに戻ってきました。伯父は兄を家に引き取ることにしました。私はそれを聞いて本当に悲しかったです。私の時には絶対に引き取らないと、村役場に何とか孤児院に入れてくれと言っていた伯父が、兄をすんなり引き取ったのです。私はまだ11歳の子どもだったからでしょうけれど、これには深く傷つきました。

 18歳の時に地元の青年団に入り、20歳で団長に選ばれました。23歳の時には約束通り家も建ててもらいました。同じ青年団にいた女性を好きになり、家も建ててもらったことだし、思い切ってその女性の両親に結婚の申し込みに行きました。しかし、相手の親からは大反対を受けました。
「あんた、あの時、広島におったの。広島におったもんは放射能に汚染されとる。あんたと結婚させたら障害児が生まれる。あんただって長生きできん。娘をそんなもんと一緒にさせるわけにはいかん。」
と言われたのです。もう悔しくて悔しくてたまりませんでした。結婚もできないのに、家をもらってもしかたがない、これからは自分の好きなように生きるぞと、自暴自棄になっていました。そしてその翌日、何も持たずに村を飛び出し、広島に戻ってきました。建ててもらった家には兄が入ったと聞きました。

Share