川本省三 Syoso kawamoto
原爆孤児を忘れないで
6.折り鶴に託して
伝えたい
今の子どもたちに、本当の戦争の姿を知ってもらうためには、辛くても話さなければいけないと思っています。孤児で生き延びた人の多くは、施設に収容されていた人たちでした。もちろんこの事実も重要です。施設にいたおかげで学校教育を受け、人生設計を立てることができたのです。世界各地から温かい支援も受けました。少なくとも中学までは卒業させてもらえました。中学を卒業後、多くは当時の保安隊、今の自衛隊の前身に就職しましたが、中には大企業の社長になった者もいます。
一方で路上に放り出され、家畜同然の生き方を強いられた孤児もいたのです。この事実は知られなければいけないはずなのに、忘れ去られようとしているのです。ヤクザの世話を受けて生き延びるしかなかったということも、まぎれもない事実なのです。私はたまたま姉が被爆後半年あまり生きていてくれ、姉が亡くなった後も伴村の村長さんに引き取ってもらえたので、路上で生活をすることはありませんでした。もし姉も原爆で亡くなっていたら、彼らと同じ運命を背負わされていたでしょう。彼らの多くは70歳くらいまでは日雇いなどの仕事をして働いてきました。しかし80歳にもなると、もう働くことはできません。体も弱ります。体力もありません。もちろん年金や保険に加入していません。生活保護を受けながら細々と生計を立てている者もいます。中には窃盗などを繰り返し、刑務所に出たり入ったりしている者もいます。刑務所では少なくとも食べることと寝る場所は保障されているので、出所してはまた犯罪を繰り返すのです。
孤児たちの生き様は善悪で計れる問題ではありません。戦争、そして原爆投下の結果、町中にあふれた孤児たちは、どうやって生きてきたのか、語る私も、聞く人もつらいことです。でもそれが戦争の本当の姿です。あの時、何の理由もなく死ななければいけなかった子どもたちがいるのです。戦争の持つ残酷さを、身を持って体験してきた者の一人として、私には伝える義務があるのです。今、私はこの事実を伝えておきたいと強く思っています。原爆孤児を二度と出さないためにも。
折鶴に託して
ピースボランティアを始めたころから、折鶴を折って紙飛行機の上に乗せ、子どもたちにあげています。私はそれを「折鶴ヒコーキ」と名付けています。紙飛行機は母から教えてもらいました。おもちゃも何もない時代に、ハガキを半分に折って鋏で飛行機を作ってくれました。鶴は今までに20万羽ほど折りました。路上で無念の内に亡くなった多くの孤児たちを思いながら折ります。そして、世界各地から資料館を訪れている子どもたちに、あの子どもたちの魂を連れて帰ってもらいたいのです。
遊ぶこともできず、ましてや外国に行くことなど考えもしなかった子どもたち。その日、何を食べられるかだけが彼らの関心事でした。せめて魂だけでも折鶴と一緒に世界各地に飛んで行って、元気に遊んでもらいたいのです。あの子たちは直接原爆にあったわけではありません。でも原爆に親を奪われ、すべてを奪われ路上に放り出されたのです。このような運命を背負わされた子どもたちがいたことを、どうぞ忘れないでください。
【文責】
2017年6月~7月にご本人に直接取材、電話取材することによって作成しました。
ここに掲載する文章の著作権はHIROSHIMA SPEAKS OUTにあります。
【参考文献】
・HIROSHIMA SPEAKS OUT HP 被爆の実相
・袋町小学校100年史
・広島復興の歩み 国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県、広島市)
・中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター 被爆69年で伝える決意
・第三世代が継ぐヒロシマ「」継ぐ展 HP
・産経新聞 戦後を生きた原爆孤児の姿を後世へ 故郷で証言する川本省三さん
・朝日中高生新聞 担う 戦火の記憶
・朝日新聞 2008年9月4日 広島版 仲間への祈りを乗せて 原爆孤児悼み「折り鶴ヒコーキ」
・平和記念資料館 ピースサイト