友田典弘 Tsunehiro Tomoda

2つの戦争を生き延びて

2.原爆投下

原爆投下

 前年から激しくなってきた空襲に備え、広島市でも1945年4月から、市内中心部にある国民学校の3年生から6年生までの学童で、親類・縁者が田舎にいる学童は、縁故疎開と称して、それらに身を寄せましたが、どうしても頼る先のない者は先生に伴われて、空襲の心配のない田舎に疎開することになりました。また疎開に行かせる余裕がない家庭の子どもは残りました。私も広島県北部にある三次のお寺に疎開しました。幸生は行きませんでした。疎開先では、朝は5時頃起きてラジオ体操や駆け足訓練などをして、午前中は勉強、午後は農作業などをしていました。ところが食料不足で、ご飯も小さなお茶碗に一杯ずつしかもらえず、それにもさつま芋や大豆が入っていて、米はほとんど入っていませんでした。おかずと言えばイナゴを焼いたものくらいでした。イナゴほどまずいものはありません。嫌で嫌でたまりませんでした。毎日ひもじい思いをしていましたので、先生に体調が悪いと嘘をつき、母に迎えに来てくれるよう頼んでもらいました。そして原爆の数日前に広島に連れて帰ってもらったのです。

 8月6日朝は雲一つなく、よく晴れていました。私は家をいつもと同じ時間に出たのですが、幸生と石蹴りをして遊びながら向かっていたために、学校に着いた時はすでに遅刻でした。下駄箱がある西校舎の前には、下級生の登校を見張るために6年生が毎朝二人ずつ立っていました。その一人に「早くしろ!」と手を引っ張られました。ちょうどその時、B-29の音が聞こえ、とっさに「危ない!」と思い、手を振り払い、下駄箱に続く階段を駆け降りました。下駄箱はコンクリート造りのこの校舎の地下にありました。校庭では朝礼のために教師5,6名と児童たち約70人が整列していました。私がちょうど片方の靴を履き替え、もう一方の靴に手をかけたところで、外がピカッと光りました。それとほぼ同時に吹き飛ばされ、しばらく気を失っていました。

どれくらい経ったか分かりませんが、気づいた時にはあたりはものすごい砂埃で、真っ暗で何も見えませんでした。私は吹き飛ばされた時に壁に強くぶちあたったようで、気づいた時には腰が痛くて立ち上がるのもたいへんでした。また壊れた窓ガラスが右足に刺さって太ももから血が流れていました。弟は私より一足早く靴を履き替え、地下から校庭に続く階段を上がって外に出ていました。私が手探りで何とか外に出ると、真っ黒になった死体が階段を上がったところに転がっていました。最初は顔も体も黒焦げで分かりませんでしたが、履いていた運動靴の「友田」の字がなんとか読めて、弟だと気づきました。校庭では子どもたちがみんな黒焦げで倒れていました。なぜかどの子どもも歯だけが白く、真っ黒に焼けた体に真っ白な歯がむき出しになっていました。つい先ほどまであった木造の校舎も、跡形もなくガレキの山になっていました。下駄箱のあった西校舎は、中は煤で真っ黒で、ガラスの窓はみな割れていましたが、外郭は残っていました。

立町方面から見た被災した袋町国民学校

立町方面から見た被災した袋町国民学校

 地下室に戻り、まだそこにいた同級生Aくんの手を引き、外に出ました。外では大勢の人々がものすごい形相をして、東に向かってぞろぞろと歩いていました。私たちはただその人々について歩きました。外は塵や埃が渦巻いていて薄暗く、なんとも言えない臭いが漂い、何度も気を失いそうになりました。腹が裂けて内臓が飛び出している男の人、皮膚が垂れ下がり腕を前に出して歩いている女の人、土塀の下敷きになって死んでいる子ども、折り重なって死んでいる人々、内臓を出して死んでいる馬。建物という建物は崩れ、いったい自分たちがどこを歩いているのかさえ分かりませんでした。私たちは、ただ前を歩いている人々について歩くだけでした。途中のあまりの混乱に、Aくんとはぐれてしまいました。確か鶴見橋を渡ったところあたりだったと思います。結局私一人で学校から2キロほど離れた小高い丘、比治山にたどりつきました。比治山には大勢の人々が避難していました。私はそこに3日間いました。夜になると町中のあちこちでちょろちょろ鬼火が燃えているのが見えました。その3日間にも、私の周りにいた人々が次々と死んでいきました。亡くなられても遺体はそのままで、誰も運び出してくれる人はいませんでした。生きているか死んでいるか分からないような人々に囲まれ、私は怖くて怖くてずっと泣き通しでした。食べるものも飲むものも何もありませんでした。二日目の夕方になって、兵隊さんが来られてカンパンと水をくださり、原爆投下以来、初めて何かを口にしました。比治山にいた3日間で唯一食べたのがそれだけでしたが、おかげでなんとか生き延びることができました。

被爆により外郭のみ残った西校舎

被爆により外郭のみ残った西校舎

 3日目には涙も涸れ、「こんなところにずっといるわけにはいかない、早く母を探さないといけない。」と思い、比治山を降りました。自宅方面に向かおうとしましたが、死体もまだ残っており、ガレキで道が分からず、市内を走る広電の線路沿いの広い道を通り広島駅に向かい、途中で線路に沿って西に折れ、次に南に折れて、とにかくひたすら自宅のある白神社の近くまで戻りました。自宅があったと思われる場所にはもう何もありませんでした。母の姿も、遺体もありませんでした。ばい煙が漂い、死臭がただよう町を母を探して歩き回りました。川には無数の死体が浮かんでいました。その日の夜は市役所の建物で寝ました。そこにもたくさんの人々が横たわっていました。明くる日からも毎日毎日、救護所でおにぎりをもらいながら、母を探しました。あちこちの学校の校庭や寺の境内、河原などに行き、焼くために積み上げられていた死体の顔を一体ずつ確認してみましたが、どうしても母を見つけることはできませんでした。

 袋町小学校は爆心地から460メートルです。爆心から500メートル以内にいた人間はほぼ100%亡くなったとされる距離にあったこの学校で、あの時地下にいて奇跡的に生き残ったのは3人で、「袋町小学校 地下室の奇跡」と呼ばれています。被爆後25年目に、ある地元テレビ局の番組で取り上げられ、その3人が被爆時にいた学校の地下室で顔を合わせる機会がありました。Aくんは家族9人のうち自分を除く全員が原爆で亡くなり、島根県松江に住む伯母さんに引き取られたそうです。玉造温泉の近くで寿司屋になったと聞きました。もう一人のOくんは、当時小学2年生で、両親と兄弟あわせて6人が亡くなり、学童疎開に行っていた兄と姉とは再会できましたが、一人孤児収容施設の似島学園に入れられ、中学卒業までそこで暮らしました。その後は自立していたお兄さんに引き取られ、広島市職員になったそうです。

金山さんとの再会

 毎日たった一人でガレキの中を、母を探して歩き回っていました、何日目か、場所はどこだったかは覚えていませんが、偶然金山さんと出合ったのです。彼は私を見るなり、「つねちゃん、生きとったんか!」とぎゅっと抱きしめてくれました。私はほんとにうれしかったです。地獄に仏とはこのことです。金山さんも「よう生きとったなあ。よう一人でがんばったなあ。」と喜んでくれました。彼は御幸橋(広島大学の傍)の近くに私を連れていってくれました。そこでは朝鮮半島出身の人たちが集まって寝起きしていて、バラックを建てようとしていました。私も手伝って、周りのガレキの中から集めてきた資材で、みんなで6戸のバラックを建てました。誰かがどこからかドラム缶を拾ってきてお風呂にし、みんなで順番に入りました。私を入れて子どもが3~4人いて、薪を集めるのは私たちの仕事でした。誰かが配給で配られる米をもらってきてくれたり、炊き出しに並んで、タクアンをもらってきたりして、みんなで協力しあって暮らしていました。お米を一升瓶に入れて棒でついて精米するのは、私の仕事でした。食べる物など何もない時だったはずなのに、誰か彼かが食べ物を調達してきてくれていました。

 ところが9月17日、室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和三大台風と言われている枕崎台風が、原爆で破壊された広島を直撃しました。ガレキの山と化していた市内に、台風がもたらした大雨で太田川が氾濫し、洪水となって押し寄せてきたのです。原爆で傷つき川沿いに建てられた仮設テントで寝かされていた人々、住む家を奪われ橋の下などで寝起きしていた人々や原爆孤児たち、ようやくバラックを建てて生活を始めた人々など、広島市内だけでも2000名以上の命が奪われたと言われています。ガレキの中に建てられていた多くのバラックも流されてしまいました。

 せっかく建てた私たちのバラックも流されてしまいました。金山さんはその日のうちに私を連れて母国に帰る決意をし、翌日には貨車に乗って門司に向かいました。親のいない私をかわいそうに思ったのでしょう。私も金山さんと離れては生きていけないと思い、彼のあとをついてまわり、どこに行くにもペッタリくっついて離れませんでした。彼がトイレに行くときでさえ後ろにへばりついていたのです。まだ9歳の子どもだった私は、韓国に行くと言われても、どこか列車に乗って行く町くらいにしか思っていませんでした。その時一緒にいた韓国の人たちは、おそらく日本に残る決意をされたのだと思います。金山さんとソウルにいる間も、その中の誰にも会うことはありませんでした。広島にいた他の韓国人とは、ソウルで何度か会う機会がありました。

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