川本省三 Syoso kawamoto

原爆孤児を忘れないで

3.孤児の生活とヤクザ

孤児の生活

 8月15日になっても疎開先に誰も引き取りに現れない子どもたちが、それぞれの村の役場の人に連れられて、広島に戻ってきました。親が死んでしまって引き取ってくれる親族もなく孤児になった子は、約2700人いました。中には親族がいても引き取りを拒否された子どももいました。みんな今日の生活で精一杯だったのです。こういった子どもたちはまず市役所に連れて行かれますが、市役所でも、それだけ多くの子どもたちが一斉に連れて来られても、収容しきれません。700人余りは施設に入ることができましたが、それ以上は引き取る場所がないからと、みんな追い出されたのです。そういう子どもたちが広島駅の周辺に集まりだして、橋の下や焼け残ったビルの隅をねぐらにしました。

 その子ども達の多くも、枕崎台風で流されてしまいました。もちろん家をなくして橋の下に寝ていた大人たちも多く流されました。姉と私が駅に引っ越してきたのは、そのすぐ後でした。枕崎台風の後、周辺の農村の人達が週に2,3回炊き出しに来てくれ、孤児たちには無料で食べさせてくれました。炊き出しは毎日行われるわけではなく、用意される量も5~600人分ほどしかありませんでした。食べることができなかった子どもたちは、鍋の底に残ったスープにタオルを浸し、それを最後の一滴までしゃぶるのです。その炊き出しも10月か11月には終了してしまいました。

 私は姉が朝、仕事に出るとすることがありませんでした。退屈で、遊ぶ友達がほしくて、炊き出しの順番を孤児に譲ってあげたり、一緒に鉄くずを拾ってあげたりしました。私は次第に孤児たちから受け入れられるようになりました。孤児かどうかは服装を見るだけでわかります。孤児たちは「着たきり雀」です。親のいる子や施設の子どもとは明らかに服装が違っていました。

 孤児たちには、夜になっても帰るところもありませんでした。橋の下や、ビルの焼け跡の隅、防空壕などが彼らの寝場所でした。だいたい5,6人のグループになって寝るのです。グループといっても友達とか仲間ではありません。寝るときくらいは固まっていた方がいいだろうという程度の集団でした。朝になるとそれぞれ勝手に自分の食べ物を探しに出かけるのでした。

 孤児たちは食べ物を入手するため、食べ物の露天商を狙いました。女性や老人が出している店です。まず店頭の餅を盗んで逃げる。それを店主が追いかける。その一瞬の隙に他の子どもが次々に餅を盗んでいくといった具合です。盗む方も必死です。いつまでも手に持っていると危険です。次の瞬間に他の孤児たちに狙われます。ですから餅を盗むのと口に入れるのは同時です。小さい子は大きい子に横取りされます。飲み込む前に口をこじ開けられ、取り出されて食べられてしまう。まさに「餓鬼」そのものでした。原爆ですべて焼き尽くされた広島には、草すら生えていませんでした。彼らが自分の力で拾って食べるものといえば、朝、広島駅の近くで読み捨てられた新聞紙くらいだったのです。かむことができる柔らかさのものといえば、これしかありませんでした。その新聞紙すら取り合いになるのです。手に入れた新聞紙は丸め、口に入れ、水で流し込むのです。

ヤクザと孤児

 路上で生活する孤児たちの面倒をみたのは、ヤクザのお兄さんたちでした。枕崎台風によって、広島にある系列の組が壊滅状態になり、その縄張りを維持するために大阪や福岡のヤクザが広島に入ってきました。ヤクザ達は市内の川土手の傍、特に現在平和公園になっている中島町に5~6軒の家を建て、二階には自分たちが住んで一階にはゴザを敷き、浮浪児を雑魚寝させていました。当初広島にやってきたヤクザたちはこの孤児たちの惨状を見て、かわいそうに思い、仁義で子どもたちを住まわせたように記憶していますが、トップの意向とは裏腹に、下で働くチンピラたちは、寝場所と食料を提供する代わりに、孤児たちを働かせて、その稼ぎをピンハネしていました。漫画「はだしのゲン」のように集団を作ってリーダーがいるのは中学生以上の孤児でした。かっぱらいくらいしかできない小学生は一人では生きていけません。

 仕事はヤクザのお兄さんが持ってきます。浮浪児5~6人を一組にして靴磨きの道具一式を貸し、1人は靴の汚れ落としと1人は磨く係、あとの子どもには客引きをやらせました。夜、仕事が終わるとヤクザのお兄さんに稼ぎを渡します。ところが稼ぎの少ないチームは次の日から別のチームと交代させられ、食事も抜きになったりしました。殴られたり、蹴られたり、川に投げ込まれたり、ほんとに乱暴なことをされていました。だからみんな必死で働きました。孤児同士の喧嘩もしょっちゅうでした。

 お兄さんたちが屋台から集めてきた野菜を使って、大きな鍋で雑炊を作らせれ、それを一杯5円で売っていたのも孤児たちでした。お兄さんたちがどうやってその野菜を調達したのかは分かりません。まともに買ったのか、脅して取り上げたものなのか。一日の終わりに残った雑炊を、子どもたちが分け合って食べている姿もよく見かけました。

 他にも孤児たちがやる仕事はいろいろありました。メチルアルコールを10倍の水で薄め、一杯10円で売ったり、ヒロポン(覚せい剤)や再生タバコの販売もやらされました。再生タバコというのは、進駐軍の兵士が捨てたタバコの吸い殻を拾い集めてほぐし、紙に巻きなおしてタバコとして売ったものです。ヒロポンを売らされている子どもが、自ら中毒になってしまったということもよくありました。この薬物中毒というのは恐ろしいものでした。突然わめいたり、暴れ出したりするのです。こうした仕事もヤクザのお兄さんが教えてくれました。ただ売上金はすべて巻き上げられました。それでも孤児たちが逃げなかったのは、食べる物を与えられ、寝る場所があったからです。こうして孤児たちはなんとか生き延びることができたのです。

町中にあふれた孤児たちは、小さい子からどんどん死んでいきました。食べ物を持っているのを見つかると、大きい子に取り上げられてしまうのです。口をもぐもぐさせているので、押さえつけて口をこじ開けてみたら小石だったという話も聞きました。病気になり、ぐったりしていても誰も気にしません。死んだらいち早くその子の服をはぎ取ります。だから路上で死んだ子は、たいてい裸でした。ヤクザのお兄さんに拾われた子は、命だけは助かったのです。当時、まわりの大人たちも自分が食べることで精いっぱいで、孤児のことに関心を寄せる人は誰もいませんでした。季節がだんだん冬に向かっていくと、飢えに加え寒さが路上の子どもたちを襲いました。死んだからと言って、ちゃんと火葬され、埋葬されたわけではありません。ゴミと一緒に焼却されたのです。人間としてではなく、まるでいらなくなった物のようにです。

 当初、2000人ほどいた路上生活をしていた子どもの数は、年末になると数百人にまで減ったと言われています。ところが、年が明けたころから、その数は増え始めました。おそらく引き取られた親戚宅や施設などでいづらくなって、飛び出してきた子どもたちが多かったのだと思います。

 台風の後の炊き出しでは、孤児たちに無料で提供していた食べ物も、孤児以外の人々にも有料で提供されるようになり、次第に駅前には周辺部の人々がゴザを敷き、箱を並べただけの闇市が立ち始めました。あまりにも露店が増え、交通の妨げになるようになると、市はヤクザを使い、露店を一か所に集めました。それが愛友市場の始まりです。そうなれば孤児たちは何もできなくなってしまいました。食べる物を手に入れるために、5~6人のグループを作り、店を襲うようになりました。うどん屋やパン屋に行って、「うどん一杯くれ!」「パンくれ!」と怒鳴るのです。出してくれなかったら、暴れて店を壊して逃げることもありました。2~3人なら、食べさせてくれる店もありました。しかし人数が多いと追い払われてしまいます。

 女の子の孤児も当初は300人くらいいました。女の子たちはヤクザのお姉さんたちが優しく世話をしていました。男の子たちはこき使われ叩かれたり蹴られたりしていたのに、女の子はきれいな服を着せてもらい、ご飯も十分与えられていました。ところがそんな子たちも一人、二人と突然いなくなってしまうのです。最後には一人もいなくなってしまいました。今になって思えば、売春婦などにされ売られていったのでしょう。

 こうした事実はほとんど知られていません。町中に放置された孤児たちの実像が、まったく伝えられていないのです。「孤児」という場合、親を亡くした子と理解され、孤児院などの施設に収容された子どもたちをイメージされることが多いようですが、実際には、施設に収容された孤児の数を大きく上回る数の孤児たちが浮浪児になって、町に放り出されたのです。

復興事業とヤクザ

 日本中の都市が空襲で焼かれ、終戦直後は各都市が一斉に復興に着手し、資材も機材も人材も足りませんでした。広島市は特にすべてのインフラが破壊されており、何から手をつけるべきかすら分からないほどの混乱状態でした。そんな中、市内を走る広島電鉄は被爆3日後には、早くも一部区間で電車を走らせました。これは生きる希望すら失っていた市民に勇気を与えてくれました。水道管も市内のあらゆるところで破裂し、人々は漏水に悩まされていました。すべての個所を修復するのに、9か月かかったと言われています。道路も橋も寸断されていました。電気もガスも通っていませんでした。中でも一番大きな問題は、人々が住む家です。なにしろ半径1,5キロ以内の建物は、コンクリートの建物以外、すべて焼き尽くされたのです。焼け出された人たちが雨露をしのげる仮設住宅の建設は、急務でした。

 市内には、住んでいた人が全員死亡してしまったという焼け跡がたくさんありました。そんな土地に、戦後入って来て不法に住み着いた人々も多くいました。学童疎開から戻ってみると、自分の元の家があったところに知らない人が住んでいた、復員して帰ると他人がいたなど、いさかいが絶えませんでした。市が現在の中央公園に3年という期限付きの仮設住宅を建てる際にも、人々がすでにバラックを建てて住んでおり、立ち退きを迫らざるをえませんでした。

 市は、様々なもめごとの仲裁のためや、土木作業を担う人員の確保のためにヤクザを雇ったのです。事業が始まると、現場監督として工事の指揮もするようになりました。子どもたちに靴磨きや客引きなどといった陳腐な仕事をやらせて、稼ぎのピンハネをしているどころではなくなったのです。子どもたちも人集めに駆り出されました。浮浪者や復員兵などに声をかけ、現場で働く人を集めさせられたのです。ヤクザが市から日当として受け取っていたのは、一人あたり100円でした。その中から作業員には80円、子どもには60円ほどを支払い、残りはピンハネしていました。

 被爆から10年くらいの間の広島市についての記録なんて残っていません。あまりにも混乱していました。まるでヤクザの町でした。まともな生活を送っている人など、ほとんどいなかったのではないでしょうか。広島と言えばヤクザの町というイメージを持っている人も多いでしょう。当時の広島を舞台にしたヤクザ映画もたくさん作られました。でも実際のヤクザなんて、映画みたいなきれいなものではありませんでした。ヤクザはいつも出刃包丁や拳銃を持ち歩いていました。棍棒を持ち歩いている者もいました。喧嘩となると相手が動かなくなるまで徹底的に打ちのめします。そうしないと息を吹き返した時に、今度は自分がやられるのです。ヤクザの仲間になると、そう教えられるのです。

 最初に広島に入って来たヤクザは、まだ一般の人に手を出さないなど、ある程度仁義というものを持っていました。ところが孤児たちをチンピラにして使いだすと、そんな悠長なことは言っていられません。みんな食べるために必死だったんです。相手が憎くて殴り倒すのではありませんでした。ただただ今日何か口にしたい、それだけでした。人を倒してでも、とにかく生きたかったのです。

Share