2007年05月25日

はじめに

村上啓子【ヒロシマに生きて・語り伝える「あの日」】は2005年7月25日から10月4日に常陽新聞に連載された同名タイトルの連載記事に、著者本人が加筆したものです。
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最近、金正日が君臨している様子が伝わってきます。日本の若い世代の人たちは、その国情を受け入れている北朝鮮の国民のありようを奇異と感じるでしょうが、日本も1945年8月15日の敗戦までは、あれ以上の過酷さがありました。金正日は北朝鮮のトップにいる「人間」ですが、天皇は「現人神(あらひとがみ)(人間の姿をした神)」だったのです。神とは絶対なる存在です。日本国民は、いかに生きるかではなく、いかに天皇のために忠誠をつくし、いかにいさぎよく死ぬかを課せられていました。それに抵抗した人たちは牢死するとか苦渋のときを過ごさねばなりませんでした。

 初等教育の名称は、現在は小学校と言いますが、当時は国民学校と称しました。それは天皇制に忠実な人格形成のための機関でした。校内に天皇と皇后の写真が納めてある建物「奉安(ほうあん)殿(でん)」があって、その前を通るときには深くお辞儀をしました。毎朝、皇居のある方角に向って遥拝(ようはい)(拝むこと)しました。町で兵隊さんに出会ったら立ち止まって敬礼をしました。
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1943年の大政翼賛会広島県支部のポスター (ひろしま今昔より)


 1941年12月8日、日本軍が真珠湾奇襲してからは、アジア諸国の解放をうたい文句にした侵略からアメリカ、イギリス、ソ連、中国などの連合国を相手にした戦争へと拡大していきました。日本国民は皇軍の勝利を信じていましたから「欲しがりません、勝つまでは」「一億一心火の玉だ」「神風が吹く」「鬼畜米英」などと合言葉を唱えて生活全般の物心両面の渇わきを辛抱していました。

軍都広島

 明治時代から広島は陸軍の重要な拠点としての役割を担っていました。広島城を含む中心地は皇軍の拠点でした。

 私の家は、その地域に近い白島九軒町にありました。

 戦時中は軍隊への奉仕活動が義務として課せられていました。たとえば、当時、車が少なかったのと、ガソリンが不足していたという理由で、軍の幹部たちの交通手段は馬に頼っていました。市民の食糧難もさることながら、馬の飼料にも事欠いていましたので、学童たちは馬の飼料のために家々を回って使い古しの茶殻を乾燥したものを集めたり、草刈をしたりの奉仕をしました。兵隊さんが町中を乗り回すので、道には馬のウンコがゴロゴロ落ちていました。それを拾って学校で一まとめにして軍に返しました。それらを乾燥させて燃料にしたらしいです。

 報道によれば日本軍は優勢とのことでしたが、日本のあちこちの市街は空襲によって壊滅状態になっていきました。国は戦闘員でもない人たちが被害にあうのを避けねばならないと、安全地帯への疎開を奨励しましたから、山間部に親戚や知人のある人たちは市街地から去っていきました。1945年春には学童疎開が制度化されて、縁故のない3~6年生の児童たちは先生に引率されて山間部のお寺に集団疎開をしました。私は家庭の事情で、そのまま市内に留まっていました。幼い頃からの友だちが次第に少なくなっていきました。「広島は強い軍隊があるから、アメリカが怖がって爆撃しない」という噂が広まったし、各地で戦災にあった軍の幹部の家族たちは、安全と思われている広島に呼び寄せられましたから、広島市内には子どもたちも大勢いました。

 ますます、戦雲急を告げる状況になってきたので、皇軍は全国から兵を集めました。軍が必要とする建物が足らなくなりましたから、私たちの校舎の一部を軍が使用することになりました。学童たちはそれぞれの家の近くにあるお寺で分散授業を受けることになりました。授業といっても、教材もノートも画用紙も不足していましたから、新聞紙に習字をしたり、天皇崇拝の神話を学んだり、防空訓練をさせられたりの日々でした。

 戦時中は夏休みがありませんでした。このことは地方によって差があったらしいのですが、広島市は軍都という特殊性でしょうか、私たちは通学していました。

1945年8月6日(月曜日)

 私は白島国民学校3年生でした。その日、なぜかお寺に行きたくないので「休みたい」と父に申しました。常には厳格な父ですが「じゃあ、お家に居なさい」と、許してくれました。

もし、登校していたら・・・お寺に居た先生も児童たちも全員が亡くなりました。登校途中だった一人のクラスメートは橋の上で被爆しました。彼女は今も生きていますが、左半身は熱傷で首も腕も間接が硬直しています。もう一人生き残ったクラスメートが居るらしいとの噂があるのですが、誰にも消息を伝えてきません。

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原爆炸裂30分後のきのこ雲。爆心地から7キロの安佐郡古市町の神田橋で (撮影:松重三男氏) 


8時15分が原爆投下された時間です。そのちょっと前、空の彼方から飛行機の音が聞こえました。庭に出て空を仰いだ父が言いました「これは日本の飛行機じゃない。危ないから退避壕に入りなさい」2歳10ヶ月の弟と私は数日前に家の中に出来た退避壕に逃げ込みました。その直後、全身に大きな衝撃を感じました。それが原爆投下の瞬間だったのです。

 父も私たちの方に突進してきました。一瞬で家が崩れたのですが、父の腰に掴まって倒れた柱や壁土や瓦の隙間から這い出しました。

 母の姿がありません。私たちは大きな声で母を呼びました。すると、足下の瓦礫がムクムクと動いて母が現れました。腕に生後57日目の妹を抱いていました。

 母は全身にわたってガラス傷を負っていました。とりわけ、大きなガラス片が両瞼の上、眉の下、右頬に突き刺さっていました。右の目玉が飛び出して胸のあたりまで垂れ下がっていました。父が掌で掬いあげたのですが、どうしようもなく千切って捨てました。

 ガラスを抜くと血が吹き出るからと、左瞼、頬、首周りなど、辺りかまわずに刺さっているガラスは抜かないことにしました。

 父も左半身に大きな傷を負っていましたが、右腕で母を担ぐことにして、妹と弟を私に託しました。

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広島第二陸軍病院太田川畔テント救護所 (8月7日、爆心より1500m、 河原四儀撮影)


 私たちは、よりによって我が家が爆撃されたと思いましたから、お隣に助けを求めました。お隣も、そのお隣も崩れていました。埃が舞い上がっていたので視界はなく、1軒1軒と順番に訪ね歩いて300mばかり離れた川原に辿り着きました。迅速に行動した私たちは小さな潅木の陰に母を寝かすことが出来ました。ふと気がつくと、私たちの周りには負傷した人が大勢集まっていました。熱傷とか傷ついた兵隊さんが軍刀を振り回して狂ったように「敵」を罵っていました。しかし、次から次へと倒れてしまいました。狭い川原ですから、押し寄せた人々の居場所がなくて、人の上に人が乗りかかったので、たちまちのうちに死者の山が出来ました。

 市の職員だった父は義勇隊事務局長でした。その職務は、緊急の場合に市民を誘導したり救助することでしたから、一刻も早く職務に付きたいと思いました。それにはまず、自分の家族の保護をしておかねばなりません。私が母と弟を見守ることになりました。

 父は、母の返り血を浴びた妹が息絶えたと思ったので、仮に埋葬しておいて、あとで掘り返しに来るつもりでした。穴を掘ったものの、血まみれになったのが哀れと感じたので、川の水でジャブジャブと手荒く洗いました。その時、妹がかすかな泣き声をあげました。

「アッ、生きている。埋めなくてよかった」と、喜んだのも束の間、妹にはお乳が必要でした。母のお乳はショックのあまり一滴も出ません。途方にくれたと同時に、押し寄せてくる負傷者が暴動を起こしてはならないと考えた父は、元気そうな兵隊さんと協力して、「すぐに救援が来るから、落ちついてください」と、触れ歩きました。被災者の中に1人の女性を見つけました。彼女の胸からお乳が滴っていました。「娘にお乳をください」と、お願いしました。「このお乳はたった今死んだ私の赤ちゃんの物です。他人には上げられません」と、断られました。父は、砂地に頭を擦り付けて、何度もお願いしました。すると、周りに居た被災者から「死んだ赤ちゃんは、戻ってこないけれど、生きている赤ちゃんに貴方のお乳を上げて、生き延びさせて上げなさい」と、声が上がったのです。その女性は、やっと、妹にお乳を下さる気持ちになって下さいました。

 私たちは朝から何も食べていませんでした。川原に植えてあったキュウリ、トマト、カボチャ、ナスなどをもぎ取りました。1口食べたとたん、私の家族はすべて吐き出してしまいました。私たちが捨てた物を奪い合って食べた人々がいました。そのことは被爆者の運命を大きく分けました。放射線を浴びた物を食べたり飲んだりした人たちは内臓に放射能を取り込んだのですから、死んだ人もいましたし、生きていても内臓疾患になった人も多く、悲壮な状況に追いやられてしまい、苦しい敗戦後の生活をされました。

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西練兵場の被爆死体 (8月10日、爆心より500m、中田左都男撮影)

 
父は、私たちを川原に残して置いて職務に付くことを試みましたが、周囲は火の海です。目の前の川を渡って大回りをして市役所に行こうとしたのですが、川の流れがきつく、しかも多くの死骸が流れているし、多くの人が暑さを避けて川に浸かっていましたから、とても泳いで渡ることが出来ませんでした。思い直して、夜通し、兵隊さんたちと協力して暴動にならないように警戒しました。

 夜通し家々が燃えていましたが、明け方になると鎮火しました。被災者も見る見るうちに亡くなってしまいました。私の妹に「お乳を上げなさい」と、女性に声をかけてくださった人たちも、そうでした。
 静かな朝を迎えました。

 父は家の焼け跡に行って、梅とラッキョウの壷を掘り出してきました。川向こうの牛田町の山襞あたりは火災が無かったようなので、その辺りの知人の家に避難することにしました。出発する前に、もう1度、妹はお乳を飲ませてもらいました。梅とラッキョウは、彼女へのお礼として差し上げました。そのことは、私たちの家族にとって最も辛い日々の始まりでした。差し上げた梅とラッキョウは放射線を浴びていたのですから・・・

 敗戦後、落ち着きを取り戻したころになってNHKラジオの「尋ね人の時間」で放送して貰ったり、新聞に掲載して貰って、妹にお乳をいただいた女性を探したのですが、消息が分からないままでした。もし、彼女が梅とラッキョウを食べたのが原因で亡くなられたとしたら、私たち家族はとんでもないことをしてしまったのです。

 数日後、中国山地の山県郡から祖父と叔父が私たちを探しに来てくれました。弟と私は祖父母の家に預けられることになりました。そのとき、初めて焼け野原になった広島市街を見渡しました。見覚えのあるものは何も見当たらず、ガレキだらけになっていました。破裂した水道管に水を求める人たちが群がるように折り重なっていました。叔父が弟を背負って歩きました。弟は「お母ちゃん、お父ちゃん」と、泣き叫びました。時折、疲れた叔父が弟を背から下ろすと、弟は後戻りしようとして走りだします。私は弟を追っかけてなだめましたが、私だって両親と離れてしまうのは心細くて泣き出しそうでした。

 広島の夏は、とても暑いのです。その時は、何もかも無くなったものですから、日陰さえありません。照りつける太陽で熱くなったガレキだらけの道なき道を裸足で歩きました。不用意にもガレキの下にあった死体を踏みました。そのときの感触は今でも鮮やかです。あれ以来、夏になると足の裏が熱くなって、いたたまれない思いをします。

被爆地では

 中国山地を縫って流れる太田川、その河口に出来たデルタが広島市です。北と東西は山に囲まれ、南は広島湾です。もともと狭い土地でしたが、明治時代に千田氏によって埋め立てが進み、文字通りに広島(人工的)になったのです。その殆どは砂地です。海抜ゼロ地帯が多く、それ以前にも台風の度に浸水事故が多発していました。

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狛犬の焼け跡、遠方には被爆電車が見える。(撮影:尾木正巳、爆心地より1400m)


 その年も10月になると大型の台風が2度到来して土砂を川に流してしまいました。このために大勢の犠牲者が出たのは悲しい出来事でしたが、被爆地ではない場所から土砂を運んできて埋め立てをしたので地表は放射能を含んでいない状態になりました。東大をはじめ、各地の学者や医療関係者が原爆の解明のためや被爆者の治療のために派遣されました。一部の学者から「被爆地には70年間は草木も生えない」と伝えられたそうですが、草木が蘇ってきました。

 翌1946年の春、被爆した桜の樹が蘇り、春風に誘われて花びらが舞いました。夏が近づくと夾竹桃の花が咲きました。その花から「生きる勇気を貰った」と、被爆者たちが言いましたので、夾竹桃を広島市のシンボルとして制定しました。見渡すかぎり焦土のヒロシマに少しずつ増えていくバラック建ての家々の周囲には、トマトもキュウリも熟れました。しかし、私は赤い夾竹桃は好きになれません。真赤なカンナが燃え立つように咲いたのも忘れることが出来ません。あの日の炎が迫ってくるように思えるからです。

私の被爆後遺症

弟と私は山県郡に移ったとはいえ、祖父は宮大工でしたから畑を少ししか持っていませんでした。周囲の農家も、それぞれに被災者を受け入れて介抱していましたから、食料を分けて貰える状況ではなかったそうです。

 8月15日敗戦。
 大人は心のより所を失ったようですが、子どもの私は、敵の飛行機が飛んで来なくなったし、退避壕に逃げ込む必要が無くなったので嬉しいと感じました。

 10月になってから、私には高熱がでて、血尿、血便が出るようになりました。田舎の医者には原爆の情報なんか届いていませんでしたから、悪い伝染病だろうと診断されて納屋に隔離されました。弟が「姉ちゃん、姉ちゃん」と、扉を叩いて泣き叫びましたが、何もしてやれませんでした。医薬品も乏しい時代でしたから、寝ているだけでした。約1ヶ月ばかり経ったころ症状は治まったのですが、耳から臭い膿が出るようになりました。咽喉の方から口に溢れるように出てきました。これも治療の方法がなく、ふき取るだけでした。

 11月になってから、広島市の南方・皆実町にあった半倒壊の家を借りることが出来たので、家族は一緒に生活することになりました。私は、日赤病院に通院するようになりましたが、病院では医薬品が充分ではなかったのです。看護婦さんが「ペニシリンがあったらいいのに・・・」と言われたのを父に告げました。その数日後、父は闇市で3個のペニシリンを入手してきました。それのお陰で、快方に向かったのを覚えています。

 私たちが山県郡に去ってから、両親と妹は袋町国民学校に出来た被災者収容所に移りました。母は、医師の手でガラス片を抜き取って貰いましたところ、左の眼球が残っているのが分かりました。幸運にも専門医から手術を受けることが出来て、再び明かりを取り戻しました。でも、多くのガラス傷と内臓機能の疾患で、殆ど寝たきりでしたから、私が家事一切をすることになり、学校へは妹をおんぶして通学しました。

後々までも

 1945年8月6日以来、残留放射能が人々を苦しめました。
被爆者はもとより、被爆者を介抱した人、焼け跡を歩き回った人、黒い雨に濡れた人、被爆死体を片付けた人、広島にいろんな情況で関わった人たちが病に罹り、亡くなったりしました。「被爆者に接すると伝染する」と流言飛語が飛び交い、被爆者は差別の対象にされました。

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万代橋の人影 (爆心地から890m、米軍撮影)


 敗戦直後に広島に住み始めた人たちは戦時中に疎開していた人たち、広島に行けば復興のための仕事があるかも知れないと集まってきた人たちが多かったので、被爆者への同情も薄く、一人一人が生きていくのがやっとの世情でした。それに、多くの被爆者は山間部や遠方に逃れて行って、当分の間は療養していたので、広島市内に戻って来られるようになるまでは、かなりの歳月を要しました。

 被爆した女性は流産、死産、障害児を生みました。だから、その後もずっと被爆者は結婚を拒否されたり、結婚をためらったり、子どもを生まないという例が多かったのです。

 敗戦12年目(1957年)になって、やっと被爆者を専門に診る病院が出来ました。それも、国が創設したのではなく、日赤病院の重藤院長の尽力でお年玉年賀葉書の収益金を受けて、日赤病院の空き地に建設されたのでした。

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壊滅した八丁堀電車通り付近、道路上に救護隊や罹災者の消息を尋ねる人たちが見える。 (9月頃、爆心地より870m、上流川町、河原四儀撮影)


 私は、その創設時に就職しました。私の職務は被爆者に面接して彼らの被爆体験を記録し、健康や生活面の訴えの聞き取りをすることでした。

 敗戦から12年も経っているのに、生活苦のために医療機関で初めて受診する人が大勢詰め掛けました。聞き取る私も被爆者ですが、彼らの悲惨な記録をとるのは、本当に辛い日々でした。それを通じて、私は私の家族は被爆者の中では幸運なケースだと感じるようになりました。それでも、2階の病棟には母が瀕死の状態で臥せって居りました。

 ある日、私も精密検査を受けました。それまで眩暈がすることが多かったのですが、病気だとは気がつかなかったのです。血液検査の結果は赤血球も白血球も通常の半分以下でした。職員である私が原爆後遺症の認定を受けることになって、被爆者としての自分を認識しました。そういった環境の日々は、私を極度に失望の淵に立たせました。たった1年半でギブアップして退職しました。

 以来、年に1度は精密検査を受けるように努めているのですが、血液が正常値以下というのが続いています。しかし、私は生きています。背が高い、背が低い、痩せている、太っている、障害がある、それぞれの違いがあって人は様々ですが、どんな条件があろうとも生かされていることは事実なので、神に感謝して、命を全うしたいと思っています。

私の原点

 敗戦2年目の初夏、新憲法が制定され執行された直後でした。父が東京に連れて来てくれました。当時は列車の燃料が石炭で、隙間だらけの窓から煤煙が入ってきましたから、鼻にタオルを押し当てて乗っていました。1昼夜近くもかかりました。食料難でしたからカバンにコッペパン数個と、統制品の米を食べるための給食切符を携えて旅でした。

 最初の夜は上野公園の中で浮浪児たちと野宿させられました。翌日は芝公園の近くにある日赤の宿舎に泊まりました。5日間くらい滞在して最後に半蔵門の堀端で父が言いました。
「戦争で破壊されたのは広島だけじゃないことを知って欲しいから啓子を東京に連れて来た。日本の首都の東京も、こんな有様だ。戦時中、この戦争は正しくないと言って牢に繋がれた人もあったのに、私はこの緑豊かな皇居にいる人を守るために働いた。罪深いお父さんを許して欲しい。見てご覧、東京の街は荒れ果てているのに皇居は何事もなかったように美しいだろう。私は、これから広島を再建するために一所懸命働くが、日本が二度と戦争をしないという魂を入れるのは、啓子の世代なのだよ。自分の目で見た東京や広島での被爆体験を忘れないで欲しい。そして、どんなことがあっても争いをすることに加担しないことだ。そのことで仲間がなく、一人ぼっちになっても勇気をもって前進する大人になって欲しい」
 この父の言葉と珍しい経験をさせてくれたことは、私が成長するに従って彩を変え、私の指針になりました。

 しかし、被爆体験を語る気持ちになるには遠い道のりが必要でした。身の上話をすることに抵抗がありましたし、隠しておきたい事柄も沢山ありますから、質問が出るのも怖いのです。知らない人にとっては何気ない質問でも、私にとっては辛いことなのです。

 文章にすることを勧めてくださったのは峠三吉の「ちちをかえせ ははをかえせ」を英訳して世界に広めた恩師・大原三八雄教授でした。でも、私は何もしませんでした。

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島病院入院通院・関係者らへの伝言
「生死消息・住所姓名をご記入ください。島薫」の文字が見える。願いもむなしく一人の生存者もなかった。


 1981年のことでした。ふと、被爆直後に過ごした祖父母の家での思い出をエッセイにして第一回広島市民文芸作品に応募しました。応募のきっかけは市民意識の発露としての気軽なものでしたが、思いがけず、それが第一席を受賞したのです。その直後、母が亡くなりました。

 文章で何かを伝えることは、私の新しい出発でしたが、フィクションは書けても自分自身の体験は書けませんでした。しかし、被爆者の思いを存分に書きました。

 1984年だったと回想するのですが、ドイツ人牧師が広島に来られまして、私が案内することになりました。彼は私と同じ位の年齢でした。原爆資料館を巡っているとき、彼が話し出しました。
「戦時中、私にはとても仲のいい友だちがいました。ある日突然、彼の家族が居なくなったのです。私は両親に『引越しするなら、どうしてお別れを言ってくれなかったのだろう』と言いました。その時、私の両親は何も言いませんでした。戦争が終わったある日、私の両親は『あの家族はユダヤ人だった』と、教えてくれました」
 その逸話を聞いた私は、膝がガクガクして立っているのがやっとでした。まさに歴史の証言だと思いました。彼自身がユダヤ人ではないのに、その話は私の心に変化をもたらしました。もしかして、私が誰かに「私は広島で被爆しました」と、言えば、「戦争とは」「平和とは」「核兵器とは」と、深く関心を持ってもらえるかも知れない。反核・平和への道を歩む人が増えるかも知れない。そう思うと、被爆体験を語ることが私にとっての責務ではないかと思えたのです。

 以後、チャンスがあれば私は話すようになりました。何度お話ししても慣れるということはなく、いつも言葉足らずだったと反省ばかりしていますが、できる限り誠意をもって人類最初に核兵器によって被災したことを語るように努力しています。

 現在の世界情勢は、とても悲惨です。インドやパキスタンは核ミサイルを装備していますし、世界各国にあるウラン鉱では労働者が放射能汚染に曝されています。砂漠地帯や海洋での核実験なども先住民が冒されています。誰も彼らに保障しようとはしていません。湾岸戦争以後、紛争地に派兵されたアメリカの兵士の中にも被曝者が出ているそうです。

 アメリカが攻撃の手を抜かない湾岸戦争やアフガン、そしてイラクでは劣化ウラン弾による被害が続出しています。

 アメリカは劣化ウラン弾は核兵器ではないと言っていますが、劣化ウランで造った弾丸を使用すれば、空中に放射性物質を撒き散らすのです。兵器の開発が進んだ現在、広島や長崎で起こった被害より悲壮な放射能被害が出ているのです。

 2003年、つくば市で写真家の豊田直己さんの「イラク写真展」が開催されました。子どもたちの写真が沢山ありました。その子どもたちの悲しそうな目を見ていると、1945年8月、私も、あんな目をしていたのだろうと思います。そして、彼らも私と同じように、悲しい思い出を抱きながら生きていなければならないのです。子どもたちに悲しい表情は禁物です。輝かしい未来を見つめる輝いた瞳を取り戻して上げるのが地球市民の役目だと思います。

「平和はいい」「戦争は嫌だ」「核兵器反対」などと思うことは、簡単です。しかし、思うだけでは何も変わらないのです。何でもいい、少しでいい、発言し、行動に移すことです。

 ここ数年、世界中で大きな災害が頻発しています。そんな事態の中で、他者に対しての思いやりやボランティア活動が盛んになっています。私は、自己のためだけでなく他者へ愛をそそぐことによって、非戦・平和が成就すると信じていますから、いずれ近いうちに老婆がもの申すこともなくなっていくに違いないと、希望を持って生きていこうと思っています。