2007年05月25日

被爆地では

 中国山地を縫って流れる太田川、その河口に出来たデルタが広島市です。北と東西は山に囲まれ、南は広島湾です。もともと狭い土地でしたが、明治時代に千田氏によって埋め立てが進み、文字通りに広島(人工的)になったのです。その殆どは砂地です。海抜ゼロ地帯が多く、それ以前にも台風の度に浸水事故が多発していました。

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狛犬の焼け跡、遠方には被爆電車が見える。(撮影:尾木正巳、爆心地より1400m)


 その年も10月になると大型の台風が2度到来して土砂を川に流してしまいました。このために大勢の犠牲者が出たのは悲しい出来事でしたが、被爆地ではない場所から土砂を運んできて埋め立てをしたので地表は放射能を含んでいない状態になりました。東大をはじめ、各地の学者や医療関係者が原爆の解明のためや被爆者の治療のために派遣されました。一部の学者から「被爆地には70年間は草木も生えない」と伝えられたそうですが、草木が蘇ってきました。

 翌1946年の春、被爆した桜の樹が蘇り、春風に誘われて花びらが舞いました。夏が近づくと夾竹桃の花が咲きました。その花から「生きる勇気を貰った」と、被爆者たちが言いましたので、夾竹桃を広島市のシンボルとして制定しました。見渡すかぎり焦土のヒロシマに少しずつ増えていくバラック建ての家々の周囲には、トマトもキュウリも熟れました。しかし、私は赤い夾竹桃は好きになれません。真赤なカンナが燃え立つように咲いたのも忘れることが出来ません。あの日の炎が迫ってくるように思えるからです。

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