2012年01月27日

54 アメリカ編4-19

ヒロシマを癒した人たち

原子爆弾が通常の爆弾と異なるのは「熱線」「爆風」「放射線」の3点に要約される。科学者でもない私だが、知っていることだけでも語るとすれば千夜物語りになるだろう。
 600メートル上空で炸裂した原子爆弾の火球が30万℃。爆心直下で6000℃と測定されたことを基準に想像していただくと、「広島市が壊滅した」という表現が大袈裟でないことは理解できる筈である。
 生き延びた人それぞれに心身の傷は深いものがあった。中でも熱線による熱傷で患部がケロイド状になってしまった人々は、夏でも長袖の服を着用し、患部をスカーフで覆い、日傘を深くさして人目を避けるようしていた。
 1949年、中学生になった私は、通学路の途中、顔面全体が異様なケロイドになっている女学生によく出会った。私は視線を下に落として通り過ぎるのが常だった。
 原爆投下10年後の55年。キリスト教メソジスト派流川(ながれかわ)教会の谷本清(たにもときよし)牧師やノーマン・カズンズ氏らの運動によって、重度のケロイドになった女性10名がニューヨークのマウント・サイナイ病院で手術を受けることになった。岩国の米軍基地から軍用機で旅立った彼女らの様子を新聞・ラジオが大々的に報道した。写真を見た私は、気になっていた女性が手術のために旅立ったことを知って安堵した。術後、彼女がノーマン・カズンズ氏の養女になられたこととか、ロスに移転されたことなどは報道で知っていた。
 あれから50年。
 05年4月29日早朝、ニューヨークのホテルのロビーで彼女の姿を見つけた私は思わず駆け寄ってその手を取った。驚いた彼女は私の顔をまじまじと見て「始めまして、笹森恵子です」と言われた。そうだ、私たちは初対面だったのだと気がついて、改めて初対面の挨拶をした。
 5月2日、セントラルパークの北側にあるマウント・サイナイ病院を訪ねた。笹森さんが手術を受けたころのスタッフはもうおられないが、病院側から丁重な出迎えを受けた。
 中国新聞の岡田記者が「当病院はヒロシマに和解を教えてくださいました」と切り出すと、応対して下さった医師団は当時の資料を示しながら顛末を語られた。この病院がクエーカー教徒の私立病院であること、ケロイドを持った女性たちへの施療は病院の歴史にとっても大きな要素となったこと、すなわち、その後の戦乱による被災者の救援活動への取り組みの端緒であったと語られた。「現在、9・11関係の患者が12.000人以上います」と言う言葉に、アメリカが内包している病巣を見たような気がした。
笹森さんは「あの時、私たちは市民の家に滞在させていただいて、経済的、精神的に大いなる支援を受けました」と、感慨をこめて当時の資料を覗きこまれた。


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マウント・サイナイ病院にて(中国新聞提供)

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