2012年01月27日

59 日本編1-2

被爆60年 ヒロシマからの発信

04年末、かねがねヒロシマを語り合っていた友人の浜井道子さんが、広く世界にヒロシマを伝えようと呼びかけて「ヒロシマ・スピークス・アウト」を立ち上げた。集った十余人の大半は英語の達人。被爆者の私も何かと用事がありそうなので加入した。
 道子さんは、国の内外から広島を訪れる人たちは資料の収集をされるが、印刷物は重いので入手をためらう人が多い。今やIT時代ではないか、資料をCD-Rにすればいいと力説した。
 資料の収集、版権の確認等々、試行錯誤の結果、1年足らずで日本語と英語のホームページを開いて『流灯』(広島平和記念公園南側の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の建設委員会が1971年に発行した手記集)を掲載した。次は、念願のCD-R作成である。業者が「主旨が分かっていますから利益は頂戴しません」と言うが、もともと資金はゼロ、やる気だけが財産だから、メンバーたちは示された金額に仰天した。
 待て待て、私はパソコンを買い換えたばかりだぞと、マニュアルを睨んで学習に励んだ。ああでもない、こうでもないと、構想が浮ぶたびに試作品が広島と牛久の間を往復した。
 05年1月25日の中国新聞には『流灯』のCD-Rを手にした道子さんの笑顔が載った。
 早速、外国の平和活動家、大学、教育機関など、連絡先の分かっている人にはどしどし郵送した。広島の来訪者にも贈呈した。反響はメールで届いた。国内の教育関係から教材にしたいとの要望が相次いだのも喜びだった。
 私は、スウェーデン行脚のお土産にした。世界平和ミッションではアメリカの多方面に配布した。
 その頃、メンバーはすでに原爆養護ホーム「むつみ園」の記録『紙碑』に着手しようとしていたが、記録された地名や人名にはルビがないので翻訳者たちが困惑した。町村役場に電話をかけて当方の主旨を述べると、何方も実に丁寧に対応して下さった。05年初秋『紙碑』を世に出した。
 05年、NPT(核不拡散条約)再検討会議中にニューヨークの国連ビルで出会ったウイラマントリー氏(元・国際司法裁判所判事)から頂いた「核の脅威が日々増大するのは何故か」の日本語訳が完成し、ホームページに載せることも叶った。 
 次は、爆心から少し離れた村で被爆者の救助に携わった人々の記録が着々と進行している。
 教会で出会ったITの達人kooさんは若干27歳、しかも婚約者は物理学者という。私たちにとって願ってもない人材である。2人は連れ立ってヒロシマ学習の旅をされた。そしてボランティアでホームページの一新を図って下さった。
 広島から離れた私だが、以前より広島に密着していると感じている。

59%20HSO%E3%81%AECD-R%E3%82%92%E8%B4%88%E5%91%88%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%B0%E8%81%9E%E6%8F%90%E4%BE%9B%EF%BC%89.JPG


HSOのCDーRを贈呈(中国新聞提供)

trackbacks

trackbackURL: