2012年01月27日

51 アメリカ編4-16

イラクより帰還したアメリカ傭兵

 05年4月30日、ニューヨークの片隅、廃屋になった劇場跡に設けられた集会所で、イラクから帰還した兵士たちの体験談が聞かれるというので参加した。会はとっくに始まっていて、支援者たちの手づくりの料理や飲み物が机の上に散乱していた。別室に通された私たちは会場から漏れてくる騒がしい音楽を感じながら、彼らの言葉を聞き漏らすまいと神経を集中させた。
☆ ジェラルド・マシュー氏は03年9月から5ヶ月間、アメリカ軍下請け業者の運転手としてクウェートとイラクの間をピストン運転したそうである。積荷は毀れた戦車の一部と思われる破片だったそうだ。暑いからシャツを脱ぎ、素手でマスクなしで作業した。間もなく物が二重にも三重に見えるようになった。砂嵐に襲われても車中や砂地に寝ていた。朝方になると顔面に浮腫を感じるようになった。クウェートの病院で「水不足」と診断されて水をガブガブ飲んだ。ドイツで受診、さらにワシントンDCでも検査を受けた。「君は、一番汚染度が高い」と投薬を受けたが効かなかった。尿検査は5ヶ月経っても結果が出ないので請求したら「サンプルが行方不明になった」と返答された。つくづく軍隊が嫌になって昔の制服を捨てた。04年3月、妻が妊娠した。検査したら胎児の右手に指が1本しかないのが分かった。劣化ウラン弾について事前に注意を受けていなかったために、このようなめにあった。今、指1本しかない娘と一緒に軍当局を訴えているそうだ。
☆ アンソニー・フィリップ氏はMPとしてイラクのサマワに駐留した。そして、頭痛、発疹、足のむくみなどの症状を呈したそうである。軍関係の病院では「何もない」と診断を下されたが、テスト機器が旧式なので正確な数値が出ないのは明らかである。帰還にあたって軍の上官から輸血用の血は10年間提供するな、子どもを3年間は持たないようにと注意された。軍当局も政府も、劣化ウラン弾は安全だと言い張っている。正確な位置関係は分からないが、「サマワはひどい」と言った彼の一言は重く私の心を捉えた。
☆ 名前を失念したもう1人の元兵士は、前述の2人と違うことが1点だけあった。「アメリカはイラクに平和をもたらした。使命を果たしたのだから自分たちの身の上に多少のことが起こっても仕方ない。事前にマスクや手袋の使用を勧めてくれなかったことが悔しい」と言った。
★ 05年11月。市民団体の招きでマシューM氏夫妻が来日して広島・大阪・東京で講演された。残念ながら、私は彼らに再会する機会を逸した。しかし、アメリカ軍が押し隠していた劣化ウラン弾使用の事実と被害の実相が、彼らの意識改革によって、世間に暴かれていく行程を報道から知ることが出来た。
★ 06年9月、アメリカ軍当局が、劣化ウラン弾による症例について調査を始めていると新聞で知った。何事も後手であるのが悲しい。

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マシューさんの話を聞く

52 アメリカ編4-17

ニューヨークで叫ぶ「ノーモア・ヒバクシャ」

例年、広島市は8月6日は平和記念公園の中央にある原爆慰霊碑の前で平和祈念式典を挙行している。「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」と刻まれてある石室の中には被爆死者の名簿が納めてある。1952年11月、極東軍事裁判の弁護人であったインドのラダビノード・パール博士が「原爆を落としたのは日本人ではない。アメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言し、碑文解釈の見解論争が起こったのだが、「ヒロシマを繰返すなという悲願は人類普遍のものであり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」と、一般的に考えられている。
 しかし、平和祈念式典を氏名が判明しない死没者が不在のままで挙行していいものかと、数年前から私の疑念がつのっていた。
 05年春、世界平和ミッションの仲間としてニューヨークで被爆者の笹森恵子(ささもりしげこ)さんに出会ったのを好機とばかり、話題にすると「私はアメリカに住んでいるから広島のことには疎いのよ、貴方の意見に賛成よ。被爆者が生きている間に、何とかしなくちゃね」と言って下さった。
5月1日は日曜日。晴れ渡った空、やや冷たい風が肌を刺激するのが心地よい。国連ビル辺りからセントラルパークまで平和行進をするのだが、老齢者は危ないからと、笹森さんと私はラリーの仲間から外された。午後1時を目安に、先回りしてセントラルパーク附近で待っていたが、気がはやるのでコースを逆に進んでいくとカーネギーホールの前に出た。と、向うの方からシュプレヒコールが聞こえ、人々の群れが見えた。最前列は反戦・反核をうたった横断幕を手にした広島市長と長崎市長、被爆者団体の代表たちだった。旧知の人たちの顔が次々に現れたので手を振って挨拶を交わした。報道陣が盛んに撮影している。出迎えた私はちゃっかり最前列に入り込んだ。ヘリコプターが上空を旋回して取材していた。ラリーは公園内になだれ込んで特設ステージの前に我先にと居並んだ。壇上で広島市長・長崎市長・被爆者代表のコメントが述べられた。次いで、私たち被爆者も壇上に駆け上がって、こぶしを天に突き上げて「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ。ノーモア・ヒバクシャ。ノーモア・ウォー」と何度も叫んだ。
 ステージから降りて報道陣に囲まれておられた秋葉市長に声をかけたのは笹森さんだった。「秋葉さん。しばらくでした。この人の話を聞いて上げて」と、私を市長の前に立たせて下さった。とっさのことで慌てたが、「原爆慰霊碑に納めてある犠牲者名簿の中に、氏名の判明しない死者という1行を加えてください」と訴えた。市長は、手帳を取り出してメモをして下さった。成就する予感が胸につきあげた。
 帰国後、娘一家が「セントラルパークで、元気にやっていたね。ニュースで観たよ」と、言った。 

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セントラルパークへの行進(中国新聞提供)

53 アメリカ編4-18

NPT再検討会議の幕間

 05年5月2~27日。NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議(5年毎の見直し)が開催される。世界の良心が国連本部を注視しているが、未だ調印していないインド、パキスタン、北朝鮮の動向が不穏因子を抱えたままである。
 4月28日のニューヨークは人種の坩堝だった。ヒロシマ・ナガサキの被爆者が千人以上も結集しているそうだが、その数の中に入っていない私も被爆者だから実数は如何ほどだろうか。
 国連内部に入るにはIDカードが必要である。時期が時期だけに窓口は長蛇の列だった。受取ったIDカードを首から下げると、いよいよ行動開始。
 安部信秦(あべのぶやす)国連事務次長(軍縮担当)を表敬訪問。私たちのミッションの目的と経過報告をさせて頂いたと同時に、大量破壊兵器問題、軍縮関係の各国間の綱引きについて諸問題を聞かせて頂いた。NPT再検討会議は全員一致が原則となっているので、核保有国は投票しないことは分かっているし、諸事情を考えても進展は難しいだろう。核保有国を追い込む必要があるのだが、せめて、IAEAの査察案強化の方向性が出せればいいと思っていると言われた。さらに、私たちの平和活動へのアドバイスとして、在京の各国大使にコンタクトをとって理解を得る努力をすること、若い世代に働きかけて運動の継続化を図るようにと示唆を頂いた。
 ビル内部のあちこちに飢餓・差別・教育など諸問題を訴えたワークショップが展開されていた。
 ヒロシマ・ナガサキの団体が被爆当時の写真を展示するとともに折鶴コーナーも設けて、鶴の折り方を教えながら核兵器の残忍性を訴えていた。関心を示してくる人もいるけれど、おおかたの人たちは通り過ぎて行く。どの国の人たちも自分たちが抱えている問題にきゅうきゅうとしているようだ。
 4日、NPT再検討会議の真っ只中、正午から広島市長・秋葉忠利氏はじめ10名ばかりのスピーチがあるので議場の傍聴席を埋めた。広島市長、長崎市長、オノ・ヨウコ、被爆者数名・・・この国連の会場で我らが代表であり被爆者の代弁者がスピーチをする、世界の耳目が集ると期待していた。  
 しかし、私の意に反して会議場にいる各国代表が次から次へと姿を消してしまい、残っているのは30人程度になってしまった。肩透かしをされた気分になっていると、この筋に精通している人からヒロシマ・ナガサキの発信は昼休みを利用して行われるのであって、この会議の正式プログラムではないと知らされた。結局、熱心に耳を傾けたのは傍聴席の日本人たちと反核運動をしている人たち、そして報道関係者たちだけだった。
 日本では、これらのスピーチが大きなニュースとして報道されたそうだ。
 結局、合意文書も作成できなかったNPT再検討会議。核兵器廃絶は幻なのだろうか。


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国連ビル前のオブジェ

54 アメリカ編4-19

ヒロシマを癒した人たち

原子爆弾が通常の爆弾と異なるのは「熱線」「爆風」「放射線」の3点に要約される。科学者でもない私だが、知っていることだけでも語るとすれば千夜物語りになるだろう。
 600メートル上空で炸裂した原子爆弾の火球が30万℃。爆心直下で6000℃と測定されたことを基準に想像していただくと、「広島市が壊滅した」という表現が大袈裟でないことは理解できる筈である。
 生き延びた人それぞれに心身の傷は深いものがあった。中でも熱線による熱傷で患部がケロイド状になってしまった人々は、夏でも長袖の服を着用し、患部をスカーフで覆い、日傘を深くさして人目を避けるようしていた。
 1949年、中学生になった私は、通学路の途中、顔面全体が異様なケロイドになっている女学生によく出会った。私は視線を下に落として通り過ぎるのが常だった。
 原爆投下10年後の55年。キリスト教メソジスト派流川(ながれかわ)教会の谷本清(たにもときよし)牧師やノーマン・カズンズ氏らの運動によって、重度のケロイドになった女性10名がニューヨークのマウント・サイナイ病院で手術を受けることになった。岩国の米軍基地から軍用機で旅立った彼女らの様子を新聞・ラジオが大々的に報道した。写真を見た私は、気になっていた女性が手術のために旅立ったことを知って安堵した。術後、彼女がノーマン・カズンズ氏の養女になられたこととか、ロスに移転されたことなどは報道で知っていた。
 あれから50年。
 05年4月29日早朝、ニューヨークのホテルのロビーで彼女の姿を見つけた私は思わず駆け寄ってその手を取った。驚いた彼女は私の顔をまじまじと見て「始めまして、笹森恵子です」と言われた。そうだ、私たちは初対面だったのだと気がついて、改めて初対面の挨拶をした。
 5月2日、セントラルパークの北側にあるマウント・サイナイ病院を訪ねた。笹森さんが手術を受けたころのスタッフはもうおられないが、病院側から丁重な出迎えを受けた。
 中国新聞の岡田記者が「当病院はヒロシマに和解を教えてくださいました」と切り出すと、応対して下さった医師団は当時の資料を示しながら顛末を語られた。この病院がクエーカー教徒の私立病院であること、ケロイドを持った女性たちへの施療は病院の歴史にとっても大きな要素となったこと、すなわち、その後の戦乱による被災者の救援活動への取り組みの端緒であったと語られた。「現在、9・11関係の患者が12.000人以上います」と言う言葉に、アメリカが内包している病巣を見たような気がした。
笹森さんは「あの時、私たちは市民の家に滞在させていただいて、経済的、精神的に大いなる支援を受けました」と、感慨をこめて当時の資料を覗きこまれた。


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マウント・サイナイ病院にて(中国新聞提供)

55 アメリカ編4-20

中央アジア非核地帯

05年5月3日、国連アジア太平洋平和軍縮センター石栗勉(いしぐりつとむ)所長の紹介を得て、中央アジア非核地帯形成に尽力されているウズベキスタン代表を訪問した。国連ビルの一室に通された私たちに「初めての被爆国からの訪問を受けて感動的です。首都のタシュケントには日本からの訪問者が絶えないし、顔立ちもアジア系同士なので、親しみを持っています」と言われたので、不勉強を詫びたい気分。
 代表は穏やかな声で「ソ連が崩壊したころ、中央アジアは核にまみれていました。我々5カ国が非核地帯を形成するには国連のサポートがありました。特に石栗氏の助言によって、日本が各国間の交渉とか金銭的な支援をしてくださいました。それまで、我々の国は国際条約交渉が未経験でしたから、アイデアは他国から頂きました。外交の知識を積み重ね、条約の下書きを創るにあたって、次第に互いの国益の差とか、外交に関しての経験の違いなどが分かってきまして対応が大変でした。
 5カ国が足並みを揃えるためには同じ気持で目的達成することが重要ですから、コーヒータイムを持って議論をしましたよ」と感慨をこめて石栗氏と顔を見合わされた。
「カザフスタンは非核地帯形成に積極的です。核実験を460回もした所ということで、セミパラチンスクに5カ国の大統領が集って署名することに決まりました。先週、メキシコシティーで非核国が集りました。国連加入国の半分以上が中央アジアの非核を称え、支援してくれています。署名が実現したら歴史の1ページになることでしょう」と話された。
 私にも発言の機会が出来たので「私には市民レベルの発言しか出来ませんが、非核地帯を形成するには特に勇気・信念・実行力が必要です。近隣諸国も見習って非核地帯が広がっていくことを祈ります。ご成功を祈りますと共に、私たちに希望を与えてくださって感謝です」と述べた。
 恥ずかしい話だが、以前の私はウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの国名は知ってはいたが、地図上で正確に指さすことは無理であった。
 それらの国々が「中央アジア非核地帯」を実現するために、99年、00年に札幌で会議をしたことも、今回の旅で初めて知った。
 06年8月、小泉首相がカザフスタン、ウズベキスタンを訪問した。資源開発援助などを話し合ったとの情報が聞こえてきたが、非核地帯形成構築に関心を寄せたとは伝わってこない。
 9月9日、朝早く目が覚めたのでラジオをつけた。「中央アジア5カ国が非核地帯形成の調印をしました」と、NHKニュースが告げた。だが、テレビも新聞も、自民党次期総裁選びとか、酒酔い運転のことにスポットをあてている。


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カザフスタン国連委員

56 アメリカ編4-21

ウイラマントリー氏

05年5月2日から始まったNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議(5年毎の見直し)のさなか、国連ビルの内外は大勢の人が往来していた。
 4日の昼下がり、私たち世界平和ミッションの面々は国際司法裁判所(ICJ・国連の組織下に常設された機関)の元判事・ウイラマントリー氏に会うために国連ビル地下のレストランで待っていた。
 氏は、NPT再検討会議開催中こそ、全世界の良心に訴えて核廃絶を実現させなくてはならないと、飛び回って居られる。私たちに許された時間も秒刻みであると知らされていた。手際よく質問しようと待機している中国新聞の岡田記者は、タバコを一口吸っては消し、次のタバコに火をつけては緊張をほぐしていた。
 約束の時間が少し過ぎたとき、人垣を掻き分けながら小柄な氏が近づいて来られた。スリランカ人特有の浅黒い肌、彫りの深い顔立ちは、01年8月6日、広島の反核集会でお見かけして以来であるが、私は他の所要があったので氏の高説を運悪く聞き逃している。
 岡田記者が「1996年、原爆使用は不法だったと判決を下していただいたことに感謝します」と挨拶するや、矢継ぎ早に過去・現在・未来の核事情についての見解を求めた。 
 氏は、「核保有国が核兵器削減とか軍縮に意欲的でないのが問題です。核抑止などという論理は欺瞞であり、条約違反です。とくにアメリカの核兵器使用も辞さないという動きは危険です」と、脇に抱えておられた革カバンから掌サイズの冊子を出されて「これに、私の持論が書いてあります」と、1人1人に手渡して下さった。秘書さんに急かされて、一端は去りかけた氏は、急ぎ戻って来られるなり「この冊子を日本語に訳して広めて貰えないだろうか」と言われた。「はい、私が属しているヒロシマ・スピークス・アウトで翻訳します。完成したら日本語は勿論ですが、英語の原文も一緒にしてホームページで公開していいでしょうか」と、ずうずうしく訊ねた。「あぁ、いいよ」と、あっさりと承諾を得た。
 冊子「核の脅威が日々増大するのは何故か」の末尾に「我々の幸運がどれくらい続くのかは誰にも分からない。もし、すべての人類がこの兵器の廃絶のために共に行動を起こさなければ、この兵器は単独で全人類を壊滅してしまうこともありうるのだ」と、氏は述べて居られる。
 翻訳と入力に半年かかったが、私たちのホームページに掲載した。今、続々と各方面から反響が寄せられている。
 
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ウイラマントリー氏と

57 アメリカ編4-22

エリートたちにとって平和とは


 05年5月5日、ボストンのハーバード大学ジョン・F・ケネディー校を訪問した。この学問の府は大学院から更に上級の学問をするために設立された超エリート校とのことである。学生900人、80カ国の学生を擁する。実社会から派遣されている学生が大半を占めているそうである。
 実は、前夜から、私の心臓は張り裂けんばかりの動悸を打っていた。その日のプレゼンテーションは何度も原爆の熱傷によるケロイド手術を繰返した笹森恵子(ささもりしげこ)さんと同席することになっていたからである。私は被爆時に奇跡的に無傷であったことが他の被爆者に対する負い目になっている。だからこそ、被爆証言をする際に、ケロイドで苦しんだ被爆者のことを述べることにしている。
 打ち合わせはハーバード大に隣接したホテルで行われた。かなり緊張した空気を感じたが、スタッフの中に日本人学生の姿がかなりあったし、広島出身の学生も数名いたので、心頼みして臨んだ。
 教授陣や学生たちの発言は最初から活発だった。どの意見も「核兵器をすぐに廃止するのは難しい。60年の積み重ねの中には良いことも悪いこともあった。成功したこともあったのを理解して欲しい」という意見に集約されるものだった。
 「良いこと、成功」とは、今やアメリカの定説になっている広島・長崎の原爆投下によって戦争を早期に終結させたという誇りとか核保有による抑止力であろうし、「悪いこと」とは、広島・長崎の原爆投下を国際世論が許さないことであろう。核開発の道程における隠れた被曝、核開発に要する莫大な経費、核兵器保管に関する経費等々もあげていいだろう。
 「50年代、60年代は核が広がり恐怖も広がった。しかし、JFKの精鋭がそれを抑えたのだ。現時点では核保有国は一桁に留まっている。放置していたなら核保有国はもっと多いに違いない」と発言する教授がいた。大方の学生たちが頷いていたのが空恐ろしい。
 私は「被爆後12年目に開設された原爆病院で働きました。熱傷や外傷による障害とか放射能後遺症があったので、定職に付くこともままならない患者さんが多かったです。被爆後、初めて医者に診て貰った人が多かったのです。核被害の悲惨さを見てきた私には核抑止論は空しいです」と発言した。
 笹森さんはケロイドの手を振り上げて「アメリカが核大国であることは事実です。今、私はロサンゼルスに住んでいます。私が納めた税金が核兵器のために遣われていることは許せません。アメリカこそ核廃絶に向かわなくては、他の国が核兵器を持つことを止めることは出来ないのです」と言われた。
 ホテルの窓からレッドソックスのスタジアムが見えた。私たちがニューヨークに去った日の試合にはイチロー選手が出るということだった。入れ違いになるとは実に残念。


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ジョン・F・ケネディ校にて

58 日本編1-1

ヒロシマを継承するとは

 04年11月28日の中国新聞に以下の記事が載った。「米国の原爆投下、日本の敗戦から間もなく六十年を迎える。被爆者たちは、あの体験を二度と繰り返してはならないと、世界平和と核兵器廃絶を訴えてきた。しかし地球を幾たびも死滅させるだけの核兵器が現に存在し続ける。一方、忌まわしい記憶を封印したまま暮らす被爆者がいかに多いかも、私たちは知っている。その被爆者に、老いが忍び寄る。私たちは『あの日』の体験をきちんと受け止めただろうか。被爆者の記憶を語り継いでいくことができるだろうか。原爆をその威力としてではなく、人間にもたらした悲惨さとして、将来に伝えられるだろうか。次代を担う若者たちが、半世紀ほどの年齢差を超えて被爆者に向き合う。その半生を聞く。被爆者が発する「未来への伝言」に耳を傾ける。そんな対話を、これから始める」
 この呼びかけに多数の若者が参加して、学習を重ねたそうである。
 05年6月25日、「未来への伝言」企画で学習した若者たちと「世界平和ミッション」で世界各地に派遣された面々は、一般市民の参加を得て対話集会を持った。
 多くの被爆者、年長者たちは欲深いもので、継承する若者たちの熱意が欠けていると発言した。若者を擁護する発言もあって、会場は熱気に包まれた。若者たちは満たされた生活の中からでは、戦争も核兵器も想像しにくいが、この企画で多くの被爆証言を聞いて学習したと発言した。
 私は観念的な発言が出るのに少なからず落胆して、「多数の証言を聞いたことが継承したと言えるのですか。ヒロシマが風化したと言われていますが、誰が風化させたのですか。被爆者は長年にわたって証言し続けました。被爆証言を聞いて平和実現のために働きますと誓った人は国内外に数えられないくらい居られます。その言葉を忘れたのでしょうか。流した涙は乾いたのですか。証言のコレクションをして継承したと錯覚しないでください」と討論に水を注した。
 大学院生という男性が「核兵器と言っても、日本に現実にあるわけでもないし、戦争が迫ってくるのでもないし、身の回りのできることからやるしかないです」と抗した。
 そうなると興奮するもので、私は「身の回りのことからやるということは、変わらないということです。今までより行動範囲を広げる、関心事を広げるという努力をしてこそ、未来への伝言が可能になるのです」と、進言した。
 老齢者から「そんなに若者を責めないでやって下さいよ、まぁ、この会場に足を運んだだけでも、ここに来た若者を褒めて上げましょうよ」と、なだめられた。
 私は過激なんだろうか。

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若者たちの広島学習

59 日本編1-2

被爆60年 ヒロシマからの発信

04年末、かねがねヒロシマを語り合っていた友人の浜井道子さんが、広く世界にヒロシマを伝えようと呼びかけて「ヒロシマ・スピークス・アウト」を立ち上げた。集った十余人の大半は英語の達人。被爆者の私も何かと用事がありそうなので加入した。
 道子さんは、国の内外から広島を訪れる人たちは資料の収集をされるが、印刷物は重いので入手をためらう人が多い。今やIT時代ではないか、資料をCD-Rにすればいいと力説した。
 資料の収集、版権の確認等々、試行錯誤の結果、1年足らずで日本語と英語のホームページを開いて『流灯』(広島平和記念公園南側の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の建設委員会が1971年に発行した手記集)を掲載した。次は、念願のCD-R作成である。業者が「主旨が分かっていますから利益は頂戴しません」と言うが、もともと資金はゼロ、やる気だけが財産だから、メンバーたちは示された金額に仰天した。
 待て待て、私はパソコンを買い換えたばかりだぞと、マニュアルを睨んで学習に励んだ。ああでもない、こうでもないと、構想が浮ぶたびに試作品が広島と牛久の間を往復した。
 05年1月25日の中国新聞には『流灯』のCD-Rを手にした道子さんの笑顔が載った。
 早速、外国の平和活動家、大学、教育機関など、連絡先の分かっている人にはどしどし郵送した。広島の来訪者にも贈呈した。反響はメールで届いた。国内の教育関係から教材にしたいとの要望が相次いだのも喜びだった。
 私は、スウェーデン行脚のお土産にした。世界平和ミッションではアメリカの多方面に配布した。
 その頃、メンバーはすでに原爆養護ホーム「むつみ園」の記録『紙碑』に着手しようとしていたが、記録された地名や人名にはルビがないので翻訳者たちが困惑した。町村役場に電話をかけて当方の主旨を述べると、何方も実に丁寧に対応して下さった。05年初秋『紙碑』を世に出した。
 05年、NPT(核不拡散条約)再検討会議中にニューヨークの国連ビルで出会ったウイラマントリー氏(元・国際司法裁判所判事)から頂いた「核の脅威が日々増大するのは何故か」の日本語訳が完成し、ホームページに載せることも叶った。 
 次は、爆心から少し離れた村で被爆者の救助に携わった人々の記録が着々と進行している。
 教会で出会ったITの達人kooさんは若干27歳、しかも婚約者は物理学者という。私たちにとって願ってもない人材である。2人は連れ立ってヒロシマ学習の旅をされた。そしてボランティアでホームページの一新を図って下さった。
 広島から離れた私だが、以前より広島に密着していると感じている。

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HSOのCDーRを贈呈(中国新聞提供)

60 日本編1-3

壁に残された伝言

 原爆の爆心からの距離が460メートルにある袋町国民学校は、鉄筋コンクリートだったので外郭が残った。被爆1週間後、被災者臨時救護所になったので、私の両親と妹は身を寄せて初冬までいた。
 敗戦後、校舎は煤けた壁に漆喰や板で応急の修理を施して新体制の小学校になった。
 20世紀最後の年、校舎の老朽化が激しいので改築することになった。取り壊しの最中、壁から夥しい被爆直後の伝言や記述が現れた。
「患者村上」の文字が発見されたとき、私は、ガラス傷で人相が分からなくなった母を判別するために書かれたものと直感した。市教委は保存を拒否したが、友人たちの協力を得て貴重な原爆遺跡であると訴える保存運動をした。今、新築なった袋町小学校に併設された平和資料館には「患者村上」の展示物がある。
 その記録は01年夏、NHKスペシャル「オ願ヒ オ知ラセ下サイ」と題して放送された。さらに、番組のディレクター井上恭介(きょうすけ)氏は「ヒロシマ 壁に残された伝言」(集英社新書)を出版された。
 05年2月上旬、スウェーデンの北方ピテオ音楽大学で研鑽を積んでいるマリンバ奏者・古徳景子(ことくけいこ)さんから著書の感想文を貰ったと井上氏から連絡があった。
 その3月21日、ストックホルムの支庁舎広場が私たち「二人のケイコ」の最初の出会いだった。20代の景子さんの大きな目が印象的だった。
 広島県三原市で薬局を営んでおられた彼女のお祖父さんは、幼かった景子さんに原爆投下直後の広島に救助に向かったことを涙ながらに語られたそうである。
 アメリカがイラクに戦争を仕掛けた時、景子さんはボストンの音楽大学に留学中だったそうである。周囲の人たちに反戦を訴えたが「リメンバー・パールハーバー」と応酬されたと言う。
 歴史から学ぶべきであると発奮した彼女は反戦・反核をテーマに「学GAKU」を作曲して世界各地で演奏した。「学(まなぶ)」は祖父の名でもあるとも聞いた。
「ヒロシマ 壁に残された伝言」を読んでから、親しい人の安否を尋ねて瓦礫の町をさ迷うソプラノ独唱曲「オ願ヒ」を創ったと、話はどこまでも尽きなかった。
 その夏、広島・宝塚・東京の「古徳景子・平和の願いコンサート」で、私は被爆体験を語る縁をいただいた。


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東京FM 2005年8月6日の夜