2011年10月07日

31 ドイツ編2

 ヒロシマの爆心から東南380メートルにあった日本銀行は、大理石と鉄筋コンクリート三階建てで壁の厚みは40~70センチある頑丈な建物だった。午前9時の開店前だったことも幸いして、シャッターを開けていた三階だけが爆風と炎に翻弄された。
 現在、その建物は広島市に移譲されて、使途が論議されているが、当面は個人や団体の展示会や催し物に使用されている。
 01年7月、そこで「世界の被爆者展」が催されていた。痩せぎすの青年が異様なまでの熱心さで見入っているのに気がついた私は彼に話しかけた。彼はドイツのミュンヘン大学の医学生イーカット・マティと名乗り、夏休みを利用して広島大学原爆放射線医学研究所で学習していると言われた。
 私も被爆者である自分を語り、さらにミュンヘンに行ったときに支庁舎の仕掛け時計を見損なったと話して、互いに束の間の会話を楽しんで別れた。
 数日後、ワールドフレンドシップセンターから電話があって、この秋、ミュンヘン大学のIPPNW (核戦争防止国際医師会議)に属している医学生たちが研修会をするので、自費でドイツに来てくれる被爆者を探している。啓子さんがスウェーデンに行くって言っていたから、帰り道に寄って欲しいと言われた。何と、依頼主はイーカットさんだった。
 私は、かねてからミュンヘン郊外のダッハウを尋ねたいと思っていたから、迷わず「行きます」と返答した。
 それが実現した11月16日は霙の降りしきる厳しい寒さであった。ユダヤ人収容所だった広大な敷地の周囲は鉄条網が張り巡らせてあった。博物館を見終わって外に出ると、更地の向こう側にコンクリート壁の建物があった。恐る恐る入って行くと、天井に毒ガスを噴出させた穴が何個もあった。数えきれないユダヤ人の死を想起させるに充分だった。音声ガイドの声が残響となって響き、それが寂寥感をいや増した。
 その夜、私はミュンヘン大学で被爆体験を語った。打上げは名だたるビールで盛り上がった。話題はもっぱら核問題だったのはさすがである。
 彼らは口々に「私たちはヒロシマを伝えますが、啓子さんもダッハウを伝えてください」と言われた。彼らと別れた後、興奮していた私は、電車を乗り過ごしてしまった。雪の降りしきる無人駅で心身ともに凍りつくような目にあった。


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(ミュンヘンの医学生と交歓)

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(ミュンヘンの医学生へ)

32 スウェーデン編4-1

ヨトボイの日本人

 02年10月、ヨーテボリの教会で被爆体験を語った時、初めて富美子ヨハンソンさんに出会った。「日本人の私がヒロシマを深く知らないのを恥ずかしく思います。次回はスウェーデンに住んでいる日本人のために被爆体験を語ってください」と言われた。
 富美子さんが実家の静岡で墓参を済ませ、我家に来て下さったのは03年1月だった。私たちは笠間市の陶芸団地、日動美術館、春風萬里荘などを巡りながら互いの身の上を語り合った。私は彼女の心に第五福竜丸事件が深く関わっているのを知った。
 03年10月、彼女が属している教会で開かれた日本人の集会は通訳不要が何より私を安心させた。聴衆の殆どが女性だったが、中年の男性を「ヨーテボリ大学の横田宗隆先生」と富美子さんに紹介された。彼の繊細な眼差しが何故か印象に残った。
 帰国して間もなく、富美子さんから、来年もヨーテボリ周辺の学識経験者や平和団体に呼びかけて、集会を用意したいと連絡があった。次回はスウェーデン人だからとヨーディス・アンデルソンさんに通訳をお願いしたとも言われた。
 04年の開催日は夏休み中なので、中学1年の孫を同行することにした。彼は佐々木サダコ物語の英語訳をリーフレットにした。千代紙で折った鶴も用意した。
 集会当日、孫は参加者にリーフレットと折鶴を配って歩いた。彼は被爆3世としての重荷を背負ったかも知れないが、黙々として私のすることを支援してくれた。
 05年3月、もう1人の孫を伴ってスウェーデン旅行をした。ストックホルム、カールスコーガを経てヨーテボリに着いた時、富美子さんに電話をしたら「横田宗隆さんの仕事場に行きましょう」と誘われた。彼がパイプオルガン製作者だと知ったのは、その時だった。鉛や錫を配合して大小のパイプを手作りする工程や音の響きについて語る彼は、まるで幼子のようだった。天井の高い建物の中に完成したばかりのパイプオルガンがあった。私たちのために外さないでいたという梯子がオルガンの背面に立てかけてあった。孫は梯子を駆け上がって歓声を上げた。私も孫の後に続いた。大小のパイプが林立する中を伝い歩きして馥郁たる木の香に酔った。彼の指先からバッハの曲が流れ始めると、私たちには至福の時がやってきた。
 05年10月26日号、ニューズウイーク誌「世界が尊敬する日本人・百人」のトップに彼が登壇していた。「芸術が世界平和実現の一端を担います」と言っていた彼の声が、私の耳に蘇ってくる。

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富美子ヨハンソンさん(左)

33 スウェーデン編4-2

官意と民意

03年9月4日、スウェーデンの西海岸ヨーテボリの空港に着くと、映画スターでもファッションモデルでもなさそうな、知的な美しさを湛えた女性のポスターが目に付いた。持ち前の好奇心で、ヨーディス・アンデルソンさんに訊ねた。
 1995年、スウェーデンはEU(欧州連合)に加盟。2002年、共通のユーロ通貨になったが、スウエーデンはクローネを維持してきた。時が経つにつれて他のEU加盟国に倣ってユーロにする案が政府側から出された。その急先鋒がポスターの女性アンナ・リンダ外相である。その成否を問う国民投票が14日に行われるが、世論は現状維持を求めていると説明された。
 例年の如くに始まった被爆証言のプログラムをこなしている間にも、国民投票のことが絶えず話題になっていた。
 アンナ・リンダ外相は国民的アイドルで、次期首相との呼び声が高いそうである。
国の方針で、誰にでも福祉の手を差し伸べるから難民に税金を持って行かれてしまうとか、高い税金を払っているのに市民に還元されていないなどと、人々は、口角泡を飛ばして賛否を論じ合っていた。
「通貨がユーロになったらEU加盟国の中でも力のある国だけが徳をする」とまで言い出す始末なので、「それって、戦争の引き金になりそうね」と言えば「そうさ、戦争だよ。一触即発だよ」とも言われた。
 10日夕刻、テレビ画面が突然変わって「アンナ・リンダ外相が刺されました」と、アナウンサーが絶叫した。その夜のうちに彼女のポスターが街角から消えた。
 11日昼下がり、あちこちでスウェーデンの半旗を見た。その時からテレビもラジオも彼女の追悼と、犯人探しを延々と報道した。14日、国民投票の答えはノーと出た。
 とんでもない歴史を刻んだ渦中に居合わせて戸惑いの日々だったが、被爆体験を語る機会は例年に劣らない回数だった。ストックホルム近郊ニクバン在住のグスタフソン夫妻が「長年、戦争をしていないスウェーデンだからと言って、この先は、どうなるか分からない」と、各地の学校や教会に被爆証言を聞きなさいと、強力に売り込んで居られたからだった。どの会場も「核戦争は意図的には起こらないだろうが、核兵器は廃絶しない限り災いの種」と、発言されて熱気があった。
 19日、私にとって久々の休日がとれたので、アンナ・リンダ外相の葬儀を見に行った。弔問に訪れた各国の要人を警護する様は、まさに、一触即発の感があった。

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(アンナ・リンダ外相の追悼番組)

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(スウェーデン紙幣)

34 スウェーデン編4-3

千人の若者たちへ

 02年10月、スウェーデン有数の工業都市ボーラスの学校で被爆証言をした際、元貿易会社員のヤン・スメドゥミア氏に出会った。仕事で何度も日本に行ったが、ヒロシマのことは知らなかったそうで、多くの若者たちにも私の体験を聞かせたいと言われた。その時は、宮本慶子さんが通訳をしてくれたから、日本食や温泉などの愉快な話で会話も弾んだ。
 私たちが帰国して2ヶ月も経ったころ、慶子さんを通じてメールを貰った。
 翌年10月、ストックホルムで、教育界・経済界の支援で若者1000人の研修会をするから、被爆証言をするようにとの要請だったが、催しの詳細が伝わってこないままに時間が過ぎた。ヨーディス・アンデルソンさんからも、通訳を頼まれたが、それ以外の情報が入ってこないと言ってきた。私はヨーテボリ周辺の教会や学校で被爆体験を語るのを約束していたから、予定通り9月3日に出発してヨーテボリに向かった。
 この旅では「日本では憲法を変えようとする動きがあるようだが、人類にとって最も崇高な理念を謳った憲法なのに変える必要があるのか」と詰問する人が少なくなかったのが、特筆すべきことだった。
 若者の研修会は、マリアンネ・エデュストロムさんという初老の女性が主宰者だった。内臓の各部を癌で冒されている彼女は、若者たちに命の大切さを考えさせたいと、一念発起して企画したと述べられた。連絡が途絶えたのは、ひとえに彼女の忙しさからだったと分かり、笑顔でハグできた。
 20日午後3時、ストックホルム郊外ブロットビィ。過疎化が進んで廃屋になった劇場を借り切っての大イベントは幕を開けた。それから24時間、ぶっ続けで多彩な行事が用意されていた。ダンス、無言劇、ジャズバンド、老神父と若い政治家の対論、人気オペラ歌手も彼の主宰するコーラスを率いて参加していた。プログラムは次から次へと進行していった。
 午後4時、私の被爆証言の番になった。戸外でたむろしていた若者たちがどっと入ってきた。会場の騒がしさは5分もしない内に静かになった。照明を暗くしてあるが、5列目くらいは私の目に入ってくる。涙を流して聞いている少女たちを抱きしめたいと思いながら、私は語り続けた。再会を約していたヤン・スメドゥミア氏とは、連絡も取れないままだった。


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(原爆写真展も)

35 スウェーデン編4-4

ノーベル終焉の地へ

 04年夏、牛久教会の吉田牧師の紹介で、スウェーデンのカールスコーガから牛久の実家に帰省されている恵ルンドさんに出会った。恵さんが属して居られるFNコミューン(スウエーデンの国連下部組織)では第二次世界大戦終結60年目の国連デーに世界平和をテーマにした催し物をするそうだ。その構想を聞いているうちに、私も参加したいと申し出るまでに気合が入った。
 間もなく広島を訪れたルンド一家は8月6日の平和祈念式典に参列。反核会議、被爆体験を聞く会、国際交流の場などに参加された。私が紹介した広島の友人たちからアドバイスを受けて精力的に資料の収集もなさった。スウェーデンに帰られた後はメールが行き交い、催し物の内容が次第に膨れていった。
 息子シモン君が在学している高校ではミニ国連会議をすることになり、彼が責任者になった。しかも、ヒロシマ学習の成果を発表するという。私は国連デーの練習を兼ねてその会議で被爆体験を語ることにした。
 05年3月、孫にも体験させたいので、彼の小学校卒業式が済むのを待って出発した。
 森と湖が点在するカールスコーガは落ち着いた気品のある町だった。アルフレッド・ノーベル終焉の地であり、ノーベル賞が授与されるストックホルムとオスロとを結ぶ中間点にあることも初めて知った。
 最初の晩餐はルンド家の親しい狩人が仕留めたというエルク(ヘラ鹿)料理だった。今までに味わったことのない食材に食いしん棒の舌が喜んだ。
 ミニ国連会議の会場はヒロシマの資料が所狭しと展示されていた。原爆ドームのレプリカはルンド一家が手作りしたものだと言われて、思わず感嘆の声をあげた。
 テレビカメラが待機していた。私は被爆体験と核廃絶の願いを語るために会議場の中央に敷かれた赤い絨毯を進んで壇上に立った。見渡すと、国連加入国の民族衣装を着た生徒たちが居並んでいた。彼らは、1年前から担当した国の歴史・地理・国情などを事前学習し、それぞれの国の立場から活発なディべートをした。
 翌日の新聞に、シモン君の活躍ぶりと、私を取材した記事が掲載された。
 カールスコーガを去る朝、残雪の中にラッパ水仙を見つけた。復活祭がやってきますと告げているかのようだった。


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(原爆ドーム レプリカ)

36 アメリカ編4-1

世界平和ミッション

 中国新聞社と広島国際文化財団の共催「世界平和ミッション」は、04年5月の南アフリカを皮切りに世界各地に派遣された。05年4月半ば、最終回のアメリカ班に急病人が出たので補欠要員としてオハイオ州コロンバスで合流して欲しいと要請された。戸惑っている時間が与えられない。娘に相談すると「アメリカこそ最大の核大国だからねぇ、身体具合さえいいなら、行く価値があるかもね」と言うので、決心がついた。
 4月15日、1人旅は嫌いじゃないけれど緊張感を覚えつつ成田を発って12時間。7年振りのシカゴのオヘア国際空港に着いた。9・11同時多発テロ事件以来、厳重なセキュリティーチェックをしていると知っていたが、指紋を採られ、写真を撮られ、出入国の書類も細部にわたって記入しなくてはならない。どうにか自力で乗り継いでコロンバスに着いた。
 ホテルで待つこと2日。やっと先発グループに合流したが、彼らはすでにチームワークが出来上がっていたから、私の入る込む余地がない。
 18日、クエーカー教徒が設立したウイルミントン大学に向かった。私は、98年9月、広島に本拠を持つワールドフレンドシップセンターから派遣されて訪れていたので、ミッションの初仕事としては気負いせずに臨めると思っていた。
 まず、訪問したのは大学に付設されているピースリソースセンターだった。そこには長身のジェームス・ボランド氏の姿があった。「やぁ、啓子じゃないか。驚いたよ」と、腰をかがめてハグして下さった。もっと驚いたのはミッションの面々だった。ジェームス氏が私の着物姿の写真を持ち出して来られた。一斉に皆の視線が集中した。その時、私は世界平和ミッションの一員になれたと感じた。
 このセンターは、ワールドフレンドシップセンターの設立に貢献されたバーバラ・レイノルズ女史によって75年に創設されたものである。ヒロシマ・ナガサキ文献を収集していて、対外的に資料の提供をしているので、大学人のみならず一般社会からも評価されている存在である。
 ちなみに、バーバラ女史は、64年、広島・長崎の被爆者、学者を伴って欧米を行脚され、被爆の実相を広く認識させる「世界平和巡礼」の祖となった人である。
 ダニエル・ディビアシオ学長からは、とても興味深い話を聞いた。クエーカー教徒の建物は入口が男性と女性が別々になっています。その理由は差別ではなく、女性が自由になるためであると。・・・と言うことは、男性が利己的存在であると認めているということなのだろうか。
 その夜、コロンバスのメノナイト教会で被爆証言をした。率先してお世話くださったのは女性群だった。


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ジェームス・ボランド氏と(中国新聞提供)

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ピースリソースセンターにて(中国新聞提供)

37 アメリカ編4-2

核軍縮に取り組む人たち

05年4月19日、世界平和ミッション一行はワシントンDCに移動した。
 翌20日、アメリカ国務省・多国間核問題室長代行のリンダ・ガリーニ女史をホテルの会議室に迎えた。彼女はアメリカ政府に30年間勤続、核関係のベテランである。開口一番「昨日、広島に行った友人からヒロシマの話を聞きました。人間は忘れやすいです。しかも、直面している問題に気を取られ易いから、貴方がたの行為は良いことです」と挨拶されたが、目は笑っていない。
 7回目にあたる今回のNPT(核兵器不拡散条約)再検討会議には150カ国以上が参加するだろう。過去5年間の推移をみると、イラン・イラク・北朝鮮・リビアなどが意図的に核を持ちたがっている。04年1月、パキスタンのカーン博士周辺による「核の闇市場」が明るみに出たではないか。その監視のためにはIAEA(国際原子力機関)による査察を強化しなくてはならない。アメリカは平和的な核軍縮、核の輸出入の管理の重要性を課題としています。核を悪用されないように、拡散しないように監視するために、アメリカが核保有をしているのは正当であると述べられた。
 私は「ヒロシマ・ナガサキで何が起こったかを念頭に置いてご活躍ください。広島には、地球上に核兵器が無くなったら消すことになっている『平和の灯』があります。せめて、私の孫が生きているうちに消えるのを願っています」と発言した。彼女は、アメリカは世界に監視の目を向けていると繰返すだけだった。
 25日、1997年に発足した「軍縮協会」のダレル・キンボール氏から見解を聞く機会を得た。彼は、若い人が歴史で起こった重要なことを知らないのを憂慮していると前置きして、アメリカの核兵器の現状について、次のように話された。確かに、今のアメリカは配備中の核弾頭を減らそうとしているが、外した弾頭を再配備できる状態にしているのが現状である。アメリカの核兵器備蓄が、他の保有国並みになるなら、国際間の話し合いが出来るだろうとも言われた。核兵器は決して使われてはならないもので、抑止力としてのみあるべきです。テロや化学兵器がターゲットになってもいけません。この協会は、核実験の抑制、兵器削減を求めていますが、残念ながらブッシュ大統領は私どもの進言を受けとめていませんとも言われた。 
 1997年、原水禁の催しで広島を訪れたという彼は、私たちミッションの主旨に賛辞を述べ、加えて、日本の景色、食べ物、日本人の気質は素晴らしいと、アメリカ人らしいリップサービスを忘れない人だった。この協会の進言がブッシュ政権に影響を及ぼすことが実現する日が来るのだろうか。
さらに、ブッシュ政権が終焉を迎えたとて、アメリカ自体が進路変更をするだろうか。私は果てしない疑念を抱いたままである。


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ガリーニ女史(左側)と(中国新聞提供)

38 アメリカ編4-3

エノラ・ゲイ

05年4月21日、ワシントンDC郊外にあるスミソニアン航空宇宙博物館新館に行った。厳しいセキュリティーチェックを受けなくてはならないのに、館内は写真撮影が許されている。
 とてつもなく天井が高くて広い。アメリカが誇る各種の戦闘機がこれ見よがしに展示されている。
中でも広島に原爆投下した際に使用されたボーイング社製のB29攻撃機「エノラ・ゲイ」は他を圧する巨体である。1万メートルの超上空飛行が可能なので低性能の日本軍機から攻撃を受ける筈もない。銀白色の機体に太陽光を反射させ、目を射るように演出して敵を威嚇したそうだ。
 原爆投下を目撃した人たちが「キラリと光ったB29が落下傘のような物を落とした」と証言しているのを思い出す。
 被爆時、私は退避所の内部に居たので機体を見るのは初めてだった。ポール・ティベツ機長の母の名を付けたこの母胎が悪魔の子「リトルボーイ」(広島へ投下された原爆のあだ名)を孕んで広島上空に飛来し、原子爆弾を初産したのだと思ったとたん「ヒロシマの仇」との言葉が私の口からこぼれた。ちなみに長崎への攻撃機のあだ名はボックスカーであり、原爆のあだ名はファットマンである。
 エノラ・ゲイには簡単な説明文が掲げてあるが、原爆投下についての記述はない。次から次へと団体客が押し寄せて来た。誰もが「第二次世界大戦時、もっとも精鋭の戦闘機がB29 でした。このエノラ・ゲイの活躍で世界が平和になりました」と、ガイドの説明を聞いては感嘆の声を挙げ、尊敬の眼差しでエノラ・ゲイを見つめていた。見学者の群に近付くと「日本人が…」という顔つきの視線を浴びた。
 このミッションの旅で、私が先発メンバーと合流したのはオハイオ州の州都コロンバスだった。庁舎の庭には戦没兵士に捧げるモニュメントがずらりと並んでいた。敗戦を経験したことのないアメリカにも、自国のために命を捧げた人たちはおびただしい。
 数年前、ティベツ機長が第二次世界大戦時の英雄として、各地を遊説している様子がテレビドキュメントとして放送された。この街のどこかにティベツが住んでいる。街路樹のリンゴの花の白さが目にしみた。原爆投下後、エノラ・ゲイの搭乗員は、懺悔の人生か、英雄の人生かの選択肢があった。そして、ティベツ機長は英雄の道を選んだ・・・と言うより、アメリカの体制が彼を英雄に仕立てなくてはならなかったのだろう。博物館の売店で、最も売れるのはエノラ・ゲイのレプリカと、エノラ・ゲイの機体と共に撮影したティベツ直筆サイン入りの写真だそうだ。
 ティベツもまた、体制側の都合に翻弄された悲劇の人であると、私は少しばかり同情している。


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(エノラ ゲイ)

39 アメリカ編4-4

アメリカン大学の姿勢

 第二次世界大戦終焉から50年、スミソニアン航空博物館が原爆展をしようとしたとき、退役軍人たちの反対にあって中止になった。と同時に、館長が退職せざるを得なくなった。
 時を同じくしてアメリカに留学中だった被爆二世の直野章子(なおのあきこ)さんは、「ヒロシマ・アメリカ――原爆展をめぐって」(渓水社)の中に、ワシントンDCのアメリカン大学構内で、自らの手で原爆展を企画し、成功させた軌跡を著して居られる。それを読んだ私はどんなに勇気を得たことか。
 私がワシントンDCにアメリカン大学ありと知ったのは、その時であった。ヒロシマ・ナガサキと聞いただけでアレルギー反応を起こすアメリカ社会にあって、日本人の1留学生に原爆展のチャンスを与えるとは、凄い大学としか言いようがない。
 02年4月、私は「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」の一員として、そこを訪れた。
 その29日夕刻、公開フォーラムに参加しようとする学生や社会人たちがキャンパス目指して集ってきた。同時中継をする現地テレビのスタッフの動きも次第に忙しそうになってきた。
 7時、フォーラム開始。パネラーは日英の核問題、国際問題の専門家たち。私は、その中で被爆証言をした。スポットライトを浴びた私は、少なからず緊張して英語に訳してあった原稿を読んだ。全プログラムが終わったとき、パネラーの1人1人から握手を求められた。カメラマンからも満足そうなウインクを貰った。使節団の仲間たちも舞台から降りた私を機嫌よく迎えてくれた。
 2度目の訪問が実現するとは思いもよらないことだった。世界平和ミッションの企画は、核問題を真剣に取り組む姿勢を保っているアメリカン大学を素通りするようなものではなかった。
 05年4月22日。キャンパスに入ると懐かしさがこみ上げてきた。行きかう学生たちが気軽に遠来の客に声をかけてくれた。見覚えのあるクズニック教授が私たちを出迎えて下さった。早々に案内されたのは50人くらいの学生たちが待っている教室だった。学生たちは私たちのプレゼンテーションを真剣に聞いてくれた。そして、各地に起こっている紛争について、大量破壊兵器について、活発なディベートを繰り広げた。残念ながら私のヒアリング能力は充分ではない。教授の表情から察するしかない。「来年のヒロシマデーには学生たちと広島に行きますよ。また会いたいです」と、終業のときに言われた。別れ際、明後日も被爆者が来訪されますので忙しいですと、教授が言われた。真摯に被爆者の証言を聞き、核廃絶への道を辿ろうとする人がいるのもアメリカである。
 ちなみに、直野章子さんは今、九州大学大学院助教授を務めるかたわら、ヒロシマと深く関わり、執筆、講演・研究と、多忙を極めて居られると聞く。


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(ワシントンDC下町)

40 アメリカ編4-5

アメリカのシンクタンク

 モントレー国際大学院のワシントン支部はポトマック河畔にあった。
 05年4月22日昼下がり、最上階の広間から見えるのは巨大なビル群と今を盛りに咲いている八重桜の並木である。周辺に詳しい人の説明によると、向かいはウオーターゲート事件のあったビルだそうだ。なるほど、ホワイトハウスから1キロも離れていないなと、歴史の検証をしている気分になった。
 ローレンス・シャイマン博士は、急ぎ足に広間に入って来られるや「私はIAEA(国際原子力機構・、エルパラダイ事務総長は2005年ノーベル平和賞受賞)の特別顧問を務めていました。日本との関りは深いですよ、平和をテーマに5度訪れました。私のことはアメリカのシンクタンクと考えて下さっていいです」と自己紹介された。フォード・カーター・クリントン各大統領在任中、核兵器、軍備の分野で政府の実務を担当した実績がそう言わしめるのであろう。
 中国新聞の岡田記者が「ブッシュ政権における核政策について教えてください」「アメリカが本当に削減をしているとは思えないのですが…」等々、立て続けに質問を発した。
「世界情勢の推移によって、核保有の状態が変化していった」と答えた博士は、NPT(核不拡散条約)再検討会議は核保有国が非核保有国に核兵器を使用しないことを宣言することであるから、この会議は重要だと考えていると言われた。一方、核保有国が核廃絶をしても北朝鮮のことは解決しないだろうし、インドとパキスタンに対しては融和の橋渡しをする必要があるだろう。イスラエルは近隣諸国とのバランスのために核保有を望むだろう。最も危惧していることは、核が漏れないようにしてテロ組織に核兵器製造をさせないことである。アメリカ市民は大統領が核兵器を使用するとは思っていない。外交上の力を持つためと理解している」と返答された。「1945年、2個しかなかった原爆を現実に使いましたね。現在、使える小型核兵器開発をしていると聞いていますが、その目的は何ですか」と、岡田記者の質問は続いた。博士は「中国の急成長も脅威であり、将来が不透明である。ブッシュ政権は核兵器を小型化して通常兵器として変身させる方向に向かっている。それは抑止を現実的にするためであり、使用目的ではない。アメリカは地域的カンファレンスをホストとして務めるべきと思っている」と、返答された。
 最後になって私に発言の機会が与えられた。現在の博士が政権に関与する立場でないのは分かっているが「アメリカ大統領も、側近のシンクタンクの人々も、アメリカが世界を制しているという前提であることが疑問です。しかし、そう自認しているなら、アメリカが率先して核廃絶の道を取るべきです」と、言わせて貰った。

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(ワシントンメモリアル)