2011年10月07日

39 アメリカ編4-4

アメリカン大学の姿勢

 第二次世界大戦終焉から50年、スミソニアン航空博物館が原爆展をしようとしたとき、退役軍人たちの反対にあって中止になった。と同時に、館長が退職せざるを得なくなった。
 時を同じくしてアメリカに留学中だった被爆二世の直野章子(なおのあきこ)さんは、「ヒロシマ・アメリカ――原爆展をめぐって」(渓水社)の中に、ワシントンDCのアメリカン大学構内で、自らの手で原爆展を企画し、成功させた軌跡を著して居られる。それを読んだ私はどんなに勇気を得たことか。
 私がワシントンDCにアメリカン大学ありと知ったのは、その時であった。ヒロシマ・ナガサキと聞いただけでアレルギー反応を起こすアメリカ社会にあって、日本人の1留学生に原爆展のチャンスを与えるとは、凄い大学としか言いようがない。
 02年4月、私は「ヒロシマ・ナガサキ反核平和使節団」の一員として、そこを訪れた。
 その29日夕刻、公開フォーラムに参加しようとする学生や社会人たちがキャンパス目指して集ってきた。同時中継をする現地テレビのスタッフの動きも次第に忙しそうになってきた。
 7時、フォーラム開始。パネラーは日英の核問題、国際問題の専門家たち。私は、その中で被爆証言をした。スポットライトを浴びた私は、少なからず緊張して英語に訳してあった原稿を読んだ。全プログラムが終わったとき、パネラーの1人1人から握手を求められた。カメラマンからも満足そうなウインクを貰った。使節団の仲間たちも舞台から降りた私を機嫌よく迎えてくれた。
 2度目の訪問が実現するとは思いもよらないことだった。世界平和ミッションの企画は、核問題を真剣に取り組む姿勢を保っているアメリカン大学を素通りするようなものではなかった。
 05年4月22日。キャンパスに入ると懐かしさがこみ上げてきた。行きかう学生たちが気軽に遠来の客に声をかけてくれた。見覚えのあるクズニック教授が私たちを出迎えて下さった。早々に案内されたのは50人くらいの学生たちが待っている教室だった。学生たちは私たちのプレゼンテーションを真剣に聞いてくれた。そして、各地に起こっている紛争について、大量破壊兵器について、活発なディベートを繰り広げた。残念ながら私のヒアリング能力は充分ではない。教授の表情から察するしかない。「来年のヒロシマデーには学生たちと広島に行きますよ。また会いたいです」と、終業のときに言われた。別れ際、明後日も被爆者が来訪されますので忙しいですと、教授が言われた。真摯に被爆者の証言を聞き、核廃絶への道を辿ろうとする人がいるのもアメリカである。
 ちなみに、直野章子さんは今、九州大学大学院助教授を務めるかたわら、ヒロシマと深く関わり、執筆、講演・研究と、多忙を極めて居られると聞く。


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(ワシントンDC下町)

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