2012年01月27日
60 日本編1-3
壁に残された伝言
原爆の爆心からの距離が460メートルにある袋町国民学校は、鉄筋コンクリートだったので外郭が残った。被爆1週間後、被災者臨時救護所になったので、私の両親と妹は身を寄せて初冬までいた。
敗戦後、校舎は煤けた壁に漆喰や板で応急の修理を施して新体制の小学校になった。
20世紀最後の年、校舎の老朽化が激しいので改築することになった。取り壊しの最中、壁から夥しい被爆直後の伝言や記述が現れた。
「患者村上」の文字が発見されたとき、私は、ガラス傷で人相が分からなくなった母を判別するために書かれたものと直感した。市教委は保存を拒否したが、友人たちの協力を得て貴重な原爆遺跡であると訴える保存運動をした。今、新築なった袋町小学校に併設された平和資料館には「患者村上」の展示物がある。
その記録は01年夏、NHKスペシャル「オ願ヒ オ知ラセ下サイ」と題して放送された。さらに、番組のディレクター井上恭介(きょうすけ)氏は「ヒロシマ 壁に残された伝言」(集英社新書)を出版された。
05年2月上旬、スウェーデンの北方ピテオ音楽大学で研鑽を積んでいるマリンバ奏者・古徳景子(ことくけいこ)さんから著書の感想文を貰ったと井上氏から連絡があった。
その3月21日、ストックホルムの支庁舎広場が私たち「二人のケイコ」の最初の出会いだった。20代の景子さんの大きな目が印象的だった。
広島県三原市で薬局を営んでおられた彼女のお祖父さんは、幼かった景子さんに原爆投下直後の広島に救助に向かったことを涙ながらに語られたそうである。
アメリカがイラクに戦争を仕掛けた時、景子さんはボストンの音楽大学に留学中だったそうである。周囲の人たちに反戦を訴えたが「リメンバー・パールハーバー」と応酬されたと言う。
歴史から学ぶべきであると発奮した彼女は反戦・反核をテーマに「学GAKU」を作曲して世界各地で演奏した。「学(まなぶ)」は祖父の名でもあるとも聞いた。
「ヒロシマ 壁に残された伝言」を読んでから、親しい人の安否を尋ねて瓦礫の町をさ迷うソプラノ独唱曲「オ願ヒ」を創ったと、話はどこまでも尽きなかった。
その夏、広島・宝塚・東京の「古徳景子・平和の願いコンサート」で、私は被爆体験を語る縁をいただいた。
東京FM 2005年8月6日の夜
- by HSO
- at 13:44