2011年10月07日

32 スウェーデン編4-1

ヨトボイの日本人

 02年10月、ヨーテボリの教会で被爆体験を語った時、初めて富美子ヨハンソンさんに出会った。「日本人の私がヒロシマを深く知らないのを恥ずかしく思います。次回はスウェーデンに住んでいる日本人のために被爆体験を語ってください」と言われた。
 富美子さんが実家の静岡で墓参を済ませ、我家に来て下さったのは03年1月だった。私たちは笠間市の陶芸団地、日動美術館、春風萬里荘などを巡りながら互いの身の上を語り合った。私は彼女の心に第五福竜丸事件が深く関わっているのを知った。
 03年10月、彼女が属している教会で開かれた日本人の集会は通訳不要が何より私を安心させた。聴衆の殆どが女性だったが、中年の男性を「ヨーテボリ大学の横田宗隆先生」と富美子さんに紹介された。彼の繊細な眼差しが何故か印象に残った。
 帰国して間もなく、富美子さんから、来年もヨーテボリ周辺の学識経験者や平和団体に呼びかけて、集会を用意したいと連絡があった。次回はスウェーデン人だからとヨーディス・アンデルソンさんに通訳をお願いしたとも言われた。
 04年の開催日は夏休み中なので、中学1年の孫を同行することにした。彼は佐々木サダコ物語の英語訳をリーフレットにした。千代紙で折った鶴も用意した。
 集会当日、孫は参加者にリーフレットと折鶴を配って歩いた。彼は被爆3世としての重荷を背負ったかも知れないが、黙々として私のすることを支援してくれた。
 05年3月、もう1人の孫を伴ってスウェーデン旅行をした。ストックホルム、カールスコーガを経てヨーテボリに着いた時、富美子さんに電話をしたら「横田宗隆さんの仕事場に行きましょう」と誘われた。彼がパイプオルガン製作者だと知ったのは、その時だった。鉛や錫を配合して大小のパイプを手作りする工程や音の響きについて語る彼は、まるで幼子のようだった。天井の高い建物の中に完成したばかりのパイプオルガンがあった。私たちのために外さないでいたという梯子がオルガンの背面に立てかけてあった。孫は梯子を駆け上がって歓声を上げた。私も孫の後に続いた。大小のパイプが林立する中を伝い歩きして馥郁たる木の香に酔った。彼の指先からバッハの曲が流れ始めると、私たちには至福の時がやってきた。
 05年10月26日号、ニューズウイーク誌「世界が尊敬する日本人・百人」のトップに彼が登壇していた。「芸術が世界平和実現の一端を担います」と言っていた彼の声が、私の耳に蘇ってくる。

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富美子ヨハンソンさん(左)

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