2011年10月07日

31 ドイツ編2

 ヒロシマの爆心から東南380メートルにあった日本銀行は、大理石と鉄筋コンクリート三階建てで壁の厚みは40~70センチある頑丈な建物だった。午前9時の開店前だったことも幸いして、シャッターを開けていた三階だけが爆風と炎に翻弄された。
 現在、その建物は広島市に移譲されて、使途が論議されているが、当面は個人や団体の展示会や催し物に使用されている。
 01年7月、そこで「世界の被爆者展」が催されていた。痩せぎすの青年が異様なまでの熱心さで見入っているのに気がついた私は彼に話しかけた。彼はドイツのミュンヘン大学の医学生イーカット・マティと名乗り、夏休みを利用して広島大学原爆放射線医学研究所で学習していると言われた。
 私も被爆者である自分を語り、さらにミュンヘンに行ったときに支庁舎の仕掛け時計を見損なったと話して、互いに束の間の会話を楽しんで別れた。
 数日後、ワールドフレンドシップセンターから電話があって、この秋、ミュンヘン大学のIPPNW (核戦争防止国際医師会議)に属している医学生たちが研修会をするので、自費でドイツに来てくれる被爆者を探している。啓子さんがスウェーデンに行くって言っていたから、帰り道に寄って欲しいと言われた。何と、依頼主はイーカットさんだった。
 私は、かねてからミュンヘン郊外のダッハウを尋ねたいと思っていたから、迷わず「行きます」と返答した。
 それが実現した11月16日は霙の降りしきる厳しい寒さであった。ユダヤ人収容所だった広大な敷地の周囲は鉄条網が張り巡らせてあった。博物館を見終わって外に出ると、更地の向こう側にコンクリート壁の建物があった。恐る恐る入って行くと、天井に毒ガスを噴出させた穴が何個もあった。数えきれないユダヤ人の死を想起させるに充分だった。音声ガイドの声が残響となって響き、それが寂寥感をいや増した。
 その夜、私はミュンヘン大学で被爆体験を語った。打上げは名だたるビールで盛り上がった。話題はもっぱら核問題だったのはさすがである。
 彼らは口々に「私たちはヒロシマを伝えますが、啓子さんもダッハウを伝えてください」と言われた。彼らと別れた後、興奮していた私は、電車を乗り過ごしてしまった。雪の降りしきる無人駅で心身ともに凍りつくような目にあった。


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(ミュンヘンの医学生と交歓)

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(ミュンヘンの医学生へ)

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