2011年10月07日
35 スウェーデン編4-4
ノーベル終焉の地へ
04年夏、牛久教会の吉田牧師の紹介で、スウェーデンのカールスコーガから牛久の実家に帰省されている恵ルンドさんに出会った。恵さんが属して居られるFNコミューン(スウエーデンの国連下部組織)では第二次世界大戦終結60年目の国連デーに世界平和をテーマにした催し物をするそうだ。その構想を聞いているうちに、私も参加したいと申し出るまでに気合が入った。
間もなく広島を訪れたルンド一家は8月6日の平和祈念式典に参列。反核会議、被爆体験を聞く会、国際交流の場などに参加された。私が紹介した広島の友人たちからアドバイスを受けて精力的に資料の収集もなさった。スウェーデンに帰られた後はメールが行き交い、催し物の内容が次第に膨れていった。
息子シモン君が在学している高校ではミニ国連会議をすることになり、彼が責任者になった。しかも、ヒロシマ学習の成果を発表するという。私は国連デーの練習を兼ねてその会議で被爆体験を語ることにした。
05年3月、孫にも体験させたいので、彼の小学校卒業式が済むのを待って出発した。
森と湖が点在するカールスコーガは落ち着いた気品のある町だった。アルフレッド・ノーベル終焉の地であり、ノーベル賞が授与されるストックホルムとオスロとを結ぶ中間点にあることも初めて知った。
最初の晩餐はルンド家の親しい狩人が仕留めたというエルク(ヘラ鹿)料理だった。今までに味わったことのない食材に食いしん棒の舌が喜んだ。
ミニ国連会議の会場はヒロシマの資料が所狭しと展示されていた。原爆ドームのレプリカはルンド一家が手作りしたものだと言われて、思わず感嘆の声をあげた。
テレビカメラが待機していた。私は被爆体験と核廃絶の願いを語るために会議場の中央に敷かれた赤い絨毯を進んで壇上に立った。見渡すと、国連加入国の民族衣装を着た生徒たちが居並んでいた。彼らは、1年前から担当した国の歴史・地理・国情などを事前学習し、それぞれの国の立場から活発なディべートをした。
翌日の新聞に、シモン君の活躍ぶりと、私を取材した記事が掲載された。
カールスコーガを去る朝、残雪の中にラッパ水仙を見つけた。復活祭がやってきますと告げているかのようだった。
(原爆ドーム レプリカ)
- by HSO
- at 12:10