2011年10月07日

34 スウェーデン編4-3

千人の若者たちへ

 02年10月、スウェーデン有数の工業都市ボーラスの学校で被爆証言をした際、元貿易会社員のヤン・スメドゥミア氏に出会った。仕事で何度も日本に行ったが、ヒロシマのことは知らなかったそうで、多くの若者たちにも私の体験を聞かせたいと言われた。その時は、宮本慶子さんが通訳をしてくれたから、日本食や温泉などの愉快な話で会話も弾んだ。
 私たちが帰国して2ヶ月も経ったころ、慶子さんを通じてメールを貰った。
 翌年10月、ストックホルムで、教育界・経済界の支援で若者1000人の研修会をするから、被爆証言をするようにとの要請だったが、催しの詳細が伝わってこないままに時間が過ぎた。ヨーディス・アンデルソンさんからも、通訳を頼まれたが、それ以外の情報が入ってこないと言ってきた。私はヨーテボリ周辺の教会や学校で被爆体験を語るのを約束していたから、予定通り9月3日に出発してヨーテボリに向かった。
 この旅では「日本では憲法を変えようとする動きがあるようだが、人類にとって最も崇高な理念を謳った憲法なのに変える必要があるのか」と詰問する人が少なくなかったのが、特筆すべきことだった。
 若者の研修会は、マリアンネ・エデュストロムさんという初老の女性が主宰者だった。内臓の各部を癌で冒されている彼女は、若者たちに命の大切さを考えさせたいと、一念発起して企画したと述べられた。連絡が途絶えたのは、ひとえに彼女の忙しさからだったと分かり、笑顔でハグできた。
 20日午後3時、ストックホルム郊外ブロットビィ。過疎化が進んで廃屋になった劇場を借り切っての大イベントは幕を開けた。それから24時間、ぶっ続けで多彩な行事が用意されていた。ダンス、無言劇、ジャズバンド、老神父と若い政治家の対論、人気オペラ歌手も彼の主宰するコーラスを率いて参加していた。プログラムは次から次へと進行していった。
 午後4時、私の被爆証言の番になった。戸外でたむろしていた若者たちがどっと入ってきた。会場の騒がしさは5分もしない内に静かになった。照明を暗くしてあるが、5列目くらいは私の目に入ってくる。涙を流して聞いている少女たちを抱きしめたいと思いながら、私は語り続けた。再会を約していたヤン・スメドゥミア氏とは、連絡も取れないままだった。


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(原爆写真展も)

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