2007年05月25日

私の被爆後遺症

弟と私は山県郡に移ったとはいえ、祖父は宮大工でしたから畑を少ししか持っていませんでした。周囲の農家も、それぞれに被災者を受け入れて介抱していましたから、食料を分けて貰える状況ではなかったそうです。

 8月15日敗戦。
 大人は心のより所を失ったようですが、子どもの私は、敵の飛行機が飛んで来なくなったし、退避壕に逃げ込む必要が無くなったので嬉しいと感じました。

 10月になってから、私には高熱がでて、血尿、血便が出るようになりました。田舎の医者には原爆の情報なんか届いていませんでしたから、悪い伝染病だろうと診断されて納屋に隔離されました。弟が「姉ちゃん、姉ちゃん」と、扉を叩いて泣き叫びましたが、何もしてやれませんでした。医薬品も乏しい時代でしたから、寝ているだけでした。約1ヶ月ばかり経ったころ症状は治まったのですが、耳から臭い膿が出るようになりました。咽喉の方から口に溢れるように出てきました。これも治療の方法がなく、ふき取るだけでした。

 11月になってから、広島市の南方・皆実町にあった半倒壊の家を借りることが出来たので、家族は一緒に生活することになりました。私は、日赤病院に通院するようになりましたが、病院では医薬品が充分ではなかったのです。看護婦さんが「ペニシリンがあったらいいのに・・・」と言われたのを父に告げました。その数日後、父は闇市で3個のペニシリンを入手してきました。それのお陰で、快方に向かったのを覚えています。

 私たちが山県郡に去ってから、両親と妹は袋町国民学校に出来た被災者収容所に移りました。母は、医師の手でガラス片を抜き取って貰いましたところ、左の眼球が残っているのが分かりました。幸運にも専門医から手術を受けることが出来て、再び明かりを取り戻しました。でも、多くのガラス傷と内臓機能の疾患で、殆ど寝たきりでしたから、私が家事一切をすることになり、学校へは妹をおんぶして通学しました。

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