2007年05月25日

後々までも

 1945年8月6日以来、残留放射能が人々を苦しめました。
被爆者はもとより、被爆者を介抱した人、焼け跡を歩き回った人、黒い雨に濡れた人、被爆死体を片付けた人、広島にいろんな情況で関わった人たちが病に罹り、亡くなったりしました。「被爆者に接すると伝染する」と流言飛語が飛び交い、被爆者は差別の対象にされました。

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万代橋の人影 (爆心地から890m、米軍撮影)


 敗戦直後に広島に住み始めた人たちは戦時中に疎開していた人たち、広島に行けば復興のための仕事があるかも知れないと集まってきた人たちが多かったので、被爆者への同情も薄く、一人一人が生きていくのがやっとの世情でした。それに、多くの被爆者は山間部や遠方に逃れて行って、当分の間は療養していたので、広島市内に戻って来られるようになるまでは、かなりの歳月を要しました。

 被爆した女性は流産、死産、障害児を生みました。だから、その後もずっと被爆者は結婚を拒否されたり、結婚をためらったり、子どもを生まないという例が多かったのです。

 敗戦12年目(1957年)になって、やっと被爆者を専門に診る病院が出来ました。それも、国が創設したのではなく、日赤病院の重藤院長の尽力でお年玉年賀葉書の収益金を受けて、日赤病院の空き地に建設されたのでした。

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壊滅した八丁堀電車通り付近、道路上に救護隊や罹災者の消息を尋ねる人たちが見える。 (9月頃、爆心地より870m、上流川町、河原四儀撮影)


 私は、その創設時に就職しました。私の職務は被爆者に面接して彼らの被爆体験を記録し、健康や生活面の訴えの聞き取りをすることでした。

 敗戦から12年も経っているのに、生活苦のために医療機関で初めて受診する人が大勢詰め掛けました。聞き取る私も被爆者ですが、彼らの悲惨な記録をとるのは、本当に辛い日々でした。それを通じて、私は私の家族は被爆者の中では幸運なケースだと感じるようになりました。それでも、2階の病棟には母が瀕死の状態で臥せって居りました。

 ある日、私も精密検査を受けました。それまで眩暈がすることが多かったのですが、病気だとは気がつかなかったのです。血液検査の結果は赤血球も白血球も通常の半分以下でした。職員である私が原爆後遺症の認定を受けることになって、被爆者としての自分を認識しました。そういった環境の日々は、私を極度に失望の淵に立たせました。たった1年半でギブアップして退職しました。

 以来、年に1度は精密検査を受けるように努めているのですが、血液が正常値以下というのが続いています。しかし、私は生きています。背が高い、背が低い、痩せている、太っている、障害がある、それぞれの違いがあって人は様々ですが、どんな条件があろうとも生かされていることは事実なので、神に感謝して、命を全うしたいと思っています。

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