2007年05月25日

私の原点

 敗戦2年目の初夏、新憲法が制定され執行された直後でした。父が東京に連れて来てくれました。当時は列車の燃料が石炭で、隙間だらけの窓から煤煙が入ってきましたから、鼻にタオルを押し当てて乗っていました。1昼夜近くもかかりました。食料難でしたからカバンにコッペパン数個と、統制品の米を食べるための給食切符を携えて旅でした。

 最初の夜は上野公園の中で浮浪児たちと野宿させられました。翌日は芝公園の近くにある日赤の宿舎に泊まりました。5日間くらい滞在して最後に半蔵門の堀端で父が言いました。
「戦争で破壊されたのは広島だけじゃないことを知って欲しいから啓子を東京に連れて来た。日本の首都の東京も、こんな有様だ。戦時中、この戦争は正しくないと言って牢に繋がれた人もあったのに、私はこの緑豊かな皇居にいる人を守るために働いた。罪深いお父さんを許して欲しい。見てご覧、東京の街は荒れ果てているのに皇居は何事もなかったように美しいだろう。私は、これから広島を再建するために一所懸命働くが、日本が二度と戦争をしないという魂を入れるのは、啓子の世代なのだよ。自分の目で見た東京や広島での被爆体験を忘れないで欲しい。そして、どんなことがあっても争いをすることに加担しないことだ。そのことで仲間がなく、一人ぼっちになっても勇気をもって前進する大人になって欲しい」
 この父の言葉と珍しい経験をさせてくれたことは、私が成長するに従って彩を変え、私の指針になりました。

 しかし、被爆体験を語る気持ちになるには遠い道のりが必要でした。身の上話をすることに抵抗がありましたし、隠しておきたい事柄も沢山ありますから、質問が出るのも怖いのです。知らない人にとっては何気ない質問でも、私にとっては辛いことなのです。

 文章にすることを勧めてくださったのは峠三吉の「ちちをかえせ ははをかえせ」を英訳して世界に広めた恩師・大原三八雄教授でした。でも、私は何もしませんでした。

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島病院入院通院・関係者らへの伝言
「生死消息・住所姓名をご記入ください。島薫」の文字が見える。願いもむなしく一人の生存者もなかった。


 1981年のことでした。ふと、被爆直後に過ごした祖父母の家での思い出をエッセイにして第一回広島市民文芸作品に応募しました。応募のきっかけは市民意識の発露としての気軽なものでしたが、思いがけず、それが第一席を受賞したのです。その直後、母が亡くなりました。

 文章で何かを伝えることは、私の新しい出発でしたが、フィクションは書けても自分自身の体験は書けませんでした。しかし、被爆者の思いを存分に書きました。

 1984年だったと回想するのですが、ドイツ人牧師が広島に来られまして、私が案内することになりました。彼は私と同じ位の年齢でした。原爆資料館を巡っているとき、彼が話し出しました。
「戦時中、私にはとても仲のいい友だちがいました。ある日突然、彼の家族が居なくなったのです。私は両親に『引越しするなら、どうしてお別れを言ってくれなかったのだろう』と言いました。その時、私の両親は何も言いませんでした。戦争が終わったある日、私の両親は『あの家族はユダヤ人だった』と、教えてくれました」
 その逸話を聞いた私は、膝がガクガクして立っているのがやっとでした。まさに歴史の証言だと思いました。彼自身がユダヤ人ではないのに、その話は私の心に変化をもたらしました。もしかして、私が誰かに「私は広島で被爆しました」と、言えば、「戦争とは」「平和とは」「核兵器とは」と、深く関心を持ってもらえるかも知れない。反核・平和への道を歩む人が増えるかも知れない。そう思うと、被爆体験を語ることが私にとっての責務ではないかと思えたのです。

 以後、チャンスがあれば私は話すようになりました。何度お話ししても慣れるということはなく、いつも言葉足らずだったと反省ばかりしていますが、できる限り誠意をもって人類最初に核兵器によって被災したことを語るように努力しています。

 現在の世界情勢は、とても悲惨です。インドやパキスタンは核ミサイルを装備していますし、世界各国にあるウラン鉱では労働者が放射能汚染に曝されています。砂漠地帯や海洋での核実験なども先住民が冒されています。誰も彼らに保障しようとはしていません。湾岸戦争以後、紛争地に派兵されたアメリカの兵士の中にも被曝者が出ているそうです。

 アメリカが攻撃の手を抜かない湾岸戦争やアフガン、そしてイラクでは劣化ウラン弾による被害が続出しています。

 アメリカは劣化ウラン弾は核兵器ではないと言っていますが、劣化ウランで造った弾丸を使用すれば、空中に放射性物質を撒き散らすのです。兵器の開発が進んだ現在、広島や長崎で起こった被害より悲壮な放射能被害が出ているのです。

 2003年、つくば市で写真家の豊田直己さんの「イラク写真展」が開催されました。子どもたちの写真が沢山ありました。その子どもたちの悲しそうな目を見ていると、1945年8月、私も、あんな目をしていたのだろうと思います。そして、彼らも私と同じように、悲しい思い出を抱きながら生きていなければならないのです。子どもたちに悲しい表情は禁物です。輝かしい未来を見つめる輝いた瞳を取り戻して上げるのが地球市民の役目だと思います。

「平和はいい」「戦争は嫌だ」「核兵器反対」などと思うことは、簡単です。しかし、思うだけでは何も変わらないのです。何でもいい、少しでいい、発言し、行動に移すことです。

 ここ数年、世界中で大きな災害が頻発しています。そんな事態の中で、他者に対しての思いやりやボランティア活動が盛んになっています。私は、自己のためだけでなく他者へ愛をそそぐことによって、非戦・平和が成就すると信じていますから、いずれ近いうちに老婆がもの申すこともなくなっていくに違いないと、希望を持って生きていこうと思っています。

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