2007年05月25日

軍都広島

 明治時代から広島は陸軍の重要な拠点としての役割を担っていました。広島城を含む中心地は皇軍の拠点でした。

 私の家は、その地域に近い白島九軒町にありました。

 戦時中は軍隊への奉仕活動が義務として課せられていました。たとえば、当時、車が少なかったのと、ガソリンが不足していたという理由で、軍の幹部たちの交通手段は馬に頼っていました。市民の食糧難もさることながら、馬の飼料にも事欠いていましたので、学童たちは馬の飼料のために家々を回って使い古しの茶殻を乾燥したものを集めたり、草刈をしたりの奉仕をしました。兵隊さんが町中を乗り回すので、道には馬のウンコがゴロゴロ落ちていました。それを拾って学校で一まとめにして軍に返しました。それらを乾燥させて燃料にしたらしいです。

 報道によれば日本軍は優勢とのことでしたが、日本のあちこちの市街は空襲によって壊滅状態になっていきました。国は戦闘員でもない人たちが被害にあうのを避けねばならないと、安全地帯への疎開を奨励しましたから、山間部に親戚や知人のある人たちは市街地から去っていきました。1945年春には学童疎開が制度化されて、縁故のない3~6年生の児童たちは先生に引率されて山間部のお寺に集団疎開をしました。私は家庭の事情で、そのまま市内に留まっていました。幼い頃からの友だちが次第に少なくなっていきました。「広島は強い軍隊があるから、アメリカが怖がって爆撃しない」という噂が広まったし、各地で戦災にあった軍の幹部の家族たちは、安全と思われている広島に呼び寄せられましたから、広島市内には子どもたちも大勢いました。

 ますます、戦雲急を告げる状況になってきたので、皇軍は全国から兵を集めました。軍が必要とする建物が足らなくなりましたから、私たちの校舎の一部を軍が使用することになりました。学童たちはそれぞれの家の近くにあるお寺で分散授業を受けることになりました。授業といっても、教材もノートも画用紙も不足していましたから、新聞紙に習字をしたり、天皇崇拝の神話を学んだり、防空訓練をさせられたりの日々でした。

 戦時中は夏休みがありませんでした。このことは地方によって差があったらしいのですが、広島市は軍都という特殊性でしょうか、私たちは通学していました。

trackbacks

trackbackURL: