2007年06月27日

2 日系二世アメリカンとヒロシマ

 97年4月初旬、日系二世のMさんがお孫さんと広島訪問されるから、お宿と案内をと沼津の友人から頼まれた。いつもするように、私は、マジックインクで彼の名を書いた紙を用意して広島駅に急いだ。彼は、引退牧師ですと流暢な日本語で自己紹介された。英語しか話せないK少年が寡黙なのは無理もない。

 夕食後、早々にK少年が寝入ったので、私たちは終わることを忘れて話をした。

 彼は松本市からアメリカに移民した一家の次男だそうだ。太平洋戦争が始まる以前、両親は先祖の土を踏んで来いと、長男を日本に送ったそうだ。兄は日本の風土、とりわけ両親の故郷が気に入って、アメリカに戻ろうとせずに慶応大学に入学したそうだ。そして、日本兵として戦死。一家は日本人収容所で辛い日々をおくったそうだ。彼は、広島が原爆でやられたのは真珠湾を奇襲したから仕方ないと嗚咽しながら語った。

 翌朝、広島平和記念資料館(通称・原爆資料館)に行った。「ひどい、恐ろしい」と、連発しながら見入っていた彼だが、地球儀に核兵器保有の量が国別に示してある展示物を見つけると「K、アメリカは凄いぞ」と、辺りに響く声で誇らしげに言った。

 帰りの電車の中で、彼は「私の容貌は日本人に見えますか、それともアメリカ人に見えますか」と囁いた。彼は何を聞き出そうとしているのだろうか・・・私は彼の顔をマジマジと見つめた。私の見るところ、彼の容貌は紛れもなく日本人であるから言葉を返すのをためらっていた。更に「ねぇ、私はアメリカ人ですよね」と、彼は有無を言わせない語調で押し付けるように言われた。

 その翌日、世界遺産になっている宮島に案内した。コロラドには海がないからと、K少年は貝堀りに夢中になった。十数個しか掘れなかったが、シジミ貝のスープはK少年を喜ばせた。

「日本が真珠湾を奇襲しなかったら、兄は死ななかった。日本が兄を殺した」という言葉と「戦後、収容所から開放された後、日本が窮乏していると知って支援活動を行った。アメリカから日本に送った援助物資の大半は日系人からだったことを知ってほしい」と言われたことは、今も私の耳に残っている。
 日本とアメリカの狭間で複雑な思いを交錯させていた彼。

ヒロシマを見た彼は、あれから変ったのだろうか、それとも、核保有を止めようとしないアメリカを誇らしく思っているのだろうか。

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(世界遺産の宮島:満潮時には海水が
厳島神社の床下を浸す)

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