2009年09月12日

16 インド・パキスタン編

敵対から友情へ

 核装備をしているインドとパキスタンの青少年にヒロシマ学習をしてもらおうとして始まった運動は、翌02年も行った。03年には、アメリカの青少年にも参加要請した。核保有のおごりに酔っているアメリカの人たちこそ学習するべきとの意見が出たからであった。

 何事も初回は世間の関心も集中しやすく、資金の調達も容易に進むものだが、3度目ともなると運動は社会に認知されていたものの、集金力が弱くなってきた。実行委員を辞めた人もあって、問題を抱えながらのゴーサインだった。

 私は歓送迎会と会期中の食事を担当することになった。経費節減のためにも手料理をすることが必要だった。彼らの中にはベジタリアンやイスラム教徒がいるのは分かりきっていたから、2つの大鍋に肉入りカレーと野菜カレーを作った。余るほど大量のカレーを作ったのに残らなかったのは、報道陣も味見をしたからと後で知った。

 8月1日午後5時、会場のアステールプラに各国の青少年たちが次々に現れた。日本の青年たちが握手を求めて進み寄った。報道陣のフラッシュが集中した。

 翌日から、盛りだくさんのヒロシマ学習が彼らを待ち受けていた。平和記念資料館(原爆資料館)では、彼らの想像を遥かに越えた被害の実相に触れた。学習の集大成として、彼らは広島市民の前で吉永小百合さんと原爆詩の朗読をした。壇上の彼らの中には、感極まって声が出せない者もいた。

 インドとパキスタンは敵対国。アメリカもアフガン攻撃をしているから、彼らすべてが戦時下にあるのをまざまざと見せつけられた日々だった。その中にあって、日本の青少年たちが彼らを交流させようと苦慮している姿が痛々しかった。

 インド・ジャドゴダのウラン鉱のドキュメント映画「ブッダの嘆き」の製作者シュリプラカッシュ氏、パキスタンの反核活動家サラマット女史も参加されたことは、主催者にとって大きな喜びだった。お二人の国境を越えた良識が青少年たちに伝わったようで、8月6日の平和祈念式典では、肩を並べて参列するほどになっていた。

 別れに際して、彼らは「核廃絶に努力しよう、民間レベルでも友好国になろう」と誓い合ったと言う。そして、メールアドレスを伝えあったそうである。

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(8月6日 インド・パキスタンの青年たち 原爆慰霊碑に献花)

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