2009年09月12日

17  ドイツ編

「原発をなぜ止めないの?」

 乗り継ぎのミラノ空港のアクセスが順調にいかず、デュッセルドルフ空港に着いたのは深夜2時過ぎだった。遅いからと簡単な挨拶だけにして、オペラ歌手・渡辺朝香さんと私はホステスのハネロー・ディックマンさんの車でアウトバーンを小1時間も駆ってエッセンへと向かった。

 2001年4月23日の朝。早々に、私たち4人は市長表敬へと向かった。市庁舎の窓から負の歴史を背負ったシナゴーグが青銅のドームを頂いて建っているのが見えた。「あの中でユダヤ人が5万人くらい亡くなった。今はユダヤ人博物館になっている」そうだ。

 大道芸人たちのピアノ演奏やダンスを見物して楽しんだが、午後からは多彩なプログラムが用意されていた。

 その後の8日間、私たちが訪問した学校・集会・教会では「原爆投下したアメリカが憎いか」と決まったように質問が出た。私はその都度「ヒロシマは憎しみより平和を選び取りました。核兵器は未来を否定する悪魔です。核廃絶しか選択肢はないのです」と答えた。

 夜の集会も毎夜のように開かれた。いつもは言葉の壁で苦労するのだが、現地在住の日本人音楽家の方々がボランティアで通訳をして下さったので、日本語でヒロシマを語ることが出来たし、参加者の方々とも活発な交流が出来たのはお互いのために幸運だった。

 会場から「広島・長崎が原爆投下され、つい最近では東海村の事故で死者が出た。なぜ、日本は過去から学んで原発を止めないのか」と発言があった。私たちのメンバーの男性が「でも、広島には原発はないです」と間抜けな返答をしたので、私は背後から水を浴びせられたようにびくっとした。

 間髪を入れず、つと立ち上がった背丈が2メートルもあろうかと思われる男性が「チュウゴクデンリョク」と大声で怒鳴った。一瞬、不穏な空気が漂った。しばらく間を置いた私は「市民サイドでは原発反対運動をしていますが、政界・財界の事情があるので原発廃止の道は遠いです」と返答するしかなかった。

 立ったまま聞いていたその男性は「市民の生活を守るのは市民自身です。チェルノブイリ事故の後、北欧一帯に死の灰が降りました。当時は切実な問題だったのに、我々市民の中には忘れようとしている人もいます。ヒロシマ・ナガサキが世界のリーダーになってくれないと、我々の核廃絶運動も弱体化してしまうのです。お願いしますよ」と、最後は哀願の口調で哀願された。 

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(エッセンの対話集会)

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