2009年09月12日

18  ドイツ編

ハネローさん

 広島に本拠を持つワールドフレンドシップセンターの平和行脚は2001年4月23日から始まった。そのプログラムはハネロー・デイクマンさんによって周到な準備がされた。

 00年、彼女は高校の美術教師を定年退職されたた。その8月6日、長年の念願だった広島平和祈念式典に参列し、ヒロシマの伝道師になると決心したというだけあって熱気は尋常ではなかった。

 私たちの一行は男女各2人で、女性の渡辺朝香さんと私はハネローさんの家に滞在した。学校・教会・市民集会・そして交流会と多忙を極めるスケジュールなのに、彼女の多彩な手料理が毎回のように食卓にのぼった。

 毎夜、彼女は自身の戦争体験を話された。「4歳のころ、ミュンヘンに住んでいたのよ。鼻の手術を受けている最中に爆撃にあったの。医師も看護師もメスを握ったまま逃げたわ。手術台の側で見守ってくれていた母が私を抱いて地下室に避難させてくれたの。ほら、鼻の真ん中に傷跡があるでしょ。結局、手術しないままだったの。オペラ座のデザイナーだった父は戦場で死んだわ。親戚の男性たちも戦場に行って、帰還したのは1人だけだった。戦後は女性だけで生きぬいたのよ。父は私に美術の才能を残してくれた。だから、上級学校には行けなかったけれど、マイスターとして美術の教師になれたの」と涙された。

 すでに私の被爆体験記を読んでいた彼女は「被爆者は私より辛い体験をしたのね。核兵器使用は現在も未来も消してしまう。私が被爆者の味方になる理由が分かって貰えたでしょう?」と、さらに言葉を続けられた。

 毎朝、広い芝生のある庭に鳥たちがやってくる。彼女はかごに盛ったパンくずやリンゴやオレンジを庭にまく。そして自作の歌を歌う「私はアローン(一人)。不思議なことに庭に来る鳥もアローン。私のことを知っているのかしら」と。

 4月30日、別れの朝が来た。彼女は「私たちの出会いの記念にコロン(Köln)をプレゼントするわ。受取ってね」と言われた。

 しかし、迎えの車に乗り込んでも、約束のオー・デ・コロンを下さらなかった。催促するのも悪いと思ったから走り出した車窓から「ダンケ(有り難う)、アウフビーダゼン(さようなら)」と言いつつ手を振った。

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(ハネローさん)
 

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