2010年05月05日

23 スウェーデン編 2-2

戦没兵士の墓

 スェーデンの西海岸ヨーテボリの沖合いに、瀬戸内海のように小さな島々が点在している。西南端のヘーノーには滞日35年のベリット・ブリンゲルソンさんが住んで居られるから、1995年に初めて訪れて以来、その後も、訪スウェーデンの度にお邪魔して休日を過ごしている。顔見知りになった島の人たちは、島の名を日本語訛りで発音する私に、こりないで発音の特訓をして下さるが、未だに彼らの気に入った発音は出来そうもない。

 ベリットさんの属している教会で初めて被爆体験を語ったのは95年で、2度目は2001年だった。その時は教会員以外にも多くの人たちが私の被爆体験を聞くために集って来られた。その後は希望者だけで懇親会ということになったが、家路を急ぐ人もなさそうで、参加者は我先にと挙手をして発言された。まるで権威ある会議のようだった。

 200年以上戦争をしていない自国を誇りにしていると語る人。1950年に国民1人1人が自覚を持って「原子兵器の使用を禁止しよう」とのスローガンを掲げてストックホルム・アピールを発信し、世界中から6億の署名を集めたと、被爆者の私に念をおすように言われる人。私は、それぞれの思いの熱さに圧倒されっぱなしだった。私が持っている世界地図帳には載ってもいない小さな島の人たちが、熱心に発言されるのを傾聴していると熱いものがこみ上げてくる。

 私は、手のひらサイズの和紙に包んだ京菓子と煎茶をテーブルに配った。平素は大振りなカップでコーヒーや紅茶に親しむ人たちにとって、少量で苦味のある煎茶は不思議な味だったようで「啓子が見ていないうちに……」と、砂糖ポットがテーブルを行きかっているのは見ないふりをした。

 数日後、ヘーノー島と橋で結ばれているオッケイロ島にある古い教会を訪れた。その墓地に戦死者の墓があった。第1次大戦・第2次大戦、それぞれにイギリス兵やドイツ兵の死体が何体も流れ着いたと言う。ベリットさんも記憶しているそうだ。

 恒例になっている戦没兵士に捧げる追悼音楽会を聴いた。時代物のパイプオルガンから荘重なバッハの曲が流れた。それは、スウェーデン人にとっての不戦の誓いの儀式でもあるという。

 私は、2004年8月に中学1年生の孫を、05年4月には、1歳下のもう1人の孫を連れて参拝した。私たちは献花して、「全世界が戦禍の地にならないように、若者たちが人殺しを正当化する集団に巻き込まれないように」と、深く頭を垂れて祈った。


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(オッケイロ教会にある兵士の墓)

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