2010年05月05日

24 スウェーデン編 2-3

旧交を温めて

①オンションスビックにて

 歴史教師のヘレン・ストローマーさんは旧知の間柄である。彼女は生徒たちにヒロシマを伝えたいからと、私の訪問を待ち焦がれて居られた。ストックホルムから500キロ北にあるオンションスビックへは列車とバスを乗り継いで行くので半日以上もかかった。

 パーク高校は小高い丘の上にあった。校内のあちこちにあるテレビモニターに日の丸と歓迎の文字が目に付いた。それに続いて「ヒロシマの被爆者・村上啓子さんの被爆体験を聞こう」と、メッセージが流れた。

 ヘレンさんによって事前学習をしていた生徒たちは、私の話を食い入るように聞いてくれた。ヒロシマが昔話ではなく、未来ある自分たちの課題であることも知っていた。


②ヨンショピンにて

 アニタ & グンナー・ウエストブロムさん夫妻、マリアンヌ・グラナフさん、リリー・パールソンさん、名前をあげればキリのないほど知人の多い町である。その人たちの計らいで被爆者・村上啓子は超多忙だった。昼間は学校、夜間は集会。日本の伝統文化を紹介したいから活け花や着物の気付けのパフォーマンスもした。

 最後の集会で「ノーベル平和賞はヒロシマやナガサキの市民たちに上げたい」と発言があった。紅潮した私は「是非、ノーベル平和賞を下さい。私たちは、どこからも援助を受けることなく、自費で平和運動をしています」と言った。

 人々が去った後、新聞社から取材に来たと、精悍な男性記者が現れた。彼は矢継ぎ早に私に質問を浴びせた。そして私の被爆体験記を見せてくれた。きょとんとしている私に「啓子さんが初めてヨンショピンに来られた時に取材させて貰いました。あれ以来、私は核廃絶問題に取り組んでいますよ」と言った。そう言えば、1995年に来訪した際、私の被爆体験を聞いて涙を浮かべていた彼ではないか。今の彼は、ひ弱で泣き虫の青年とは別人のようだった。


③ストックホルムにて

 明日は日本へ帰るという日。かつて広島で出会ったキリスト教バプテストユニオンのグンネル・アンドレアソンさんに会った。「もっと多くのスウェーデン人が知らなくてはなりません。準備しておきますから、来年も来てください」と言われた。

 帰国の飛行機の中。私は、はやくも1年先のスウェーデン訪問に心を馳せていた。

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(パーク高校の生徒と原爆展)


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