2010年05月05日

27 アメリカ編 2-3

アトランタ

アトランタといえば、マルチン・ルーサー・キング牧師の出生地であることとマーガレット・ミッチェルの小説「風と共に去りぬ」の舞台になっている地という程度の粗末な知識くらいしか持ち合わせがなかった。

 私たち、反核平和使節団が訪れた2002年5月。市街地には高層ビルが建ち並び、高速道路を車が疾走していた。かつての時代、奴隷が綿積みをしていたと思い描くのは難しいが、出会う人たちの大多数が有色なので、歴史の残影として想像出来なくもない。

 この地には、いざ戦争という時に駆り出される側の人たちが住んでいるとも言えよう。だからこそ、ヒロシマ・ナガサキを生徒たちに聞かせたいと願う教師たちがいた。

 私たちは手分けしてラジオやテレビに出演し、「広島・長崎への原爆投下を責めに来たのではない。核廃絶を訴えに来た」と発言した。放送中、放送局に聴取者から「リメンバー・パールハーバー」と、何本も電話があって、私たち代表が対話をしたので、それらが電波に流れた。

 明日は学校訪問という前夜、打ち合わせ会議をしているところに現場の教師から電話が入った。教育委員会からヒロシマ・ナガサキの反核平和使節団を受け入れてはいけないと通達があったというものだった。綿密な準備をしていた私たちの会話が途絶えた。

 生徒たちとの対話こそ、私たちが望んでいることだった。広島、長崎の市民からアトランタの生徒たちへ託された折鶴のレイも用意してある。英語で話そうと、にわか仕込みの英語特訓をした仲間もいた。

 同行している報道関係者も固唾をのんで私たちの動向をうかがった。時計の針が早回りしているように時間が過ぎて日付がとっくに変わっていた。

 2度目の電話が入った。私たちを招こうとしている教師たちは、「教育委員会からの処分も辞さない、手引きをするから生徒たちに伝えて欲しい」と言う。

 その言葉を聞いた私たちは、意を決して強行することにした。だが、逮捕者が出たら日本に無事に帰れるだろうか、アメリカに再入国する資格を失うかも知れない、報道されたら困るなどと小田原評定を繰返した。

 3度目の電話が鳴った。現場の教師からだった。放課後、校門の外で待ち受けて、下校する生徒たちと対話をして欲しいとの提案だった。私たちも同じことを考えていたので即決だった。夜明け近くなっていた。

 昼下がり、下校する生徒たちの首に折鶴のレイをかけて上げた。生徒たちは「ヒロシマ・ナガサキの話が聞きたかった。核兵器廃絶に向かって努力をします」と言ってくれた。

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(アトランタの教員たちと)


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