2010年05月05日

28 スウェーデン編 3-1

紛争地へのまなざし

 2002年10月半ばから1ヵ月半の長丁場では心身ともに疲れるので、ヒロシマを精通している翻訳家の宮本慶子さんに前半を、市川和子さんに後半をと同行して貰った。

 スウェーデン人たちの殆どが英語を話せるとは言え、それは若い世代のことであって、全般的なことではない。

 学校、教会、集会、パーティーなど、車に乗り、列車に乗り、地下鉄に乗って移動しつつプログラムをこなした。

 ソデテリアのラジオ局から取材を申し込まれたときは、とっさの判断で、その年の8月6日、広島平和公園で演奏したヒロシマの歌「世界の命=広島の心」の録音テープを差し出して、バックに流すようにお願いした。私は、スタジオに流れる曲を聴きながら被爆体験と核廃絶への思いを語った。

 1週間後、30年くらい前に静岡県にあったスウェーデン人学校の教師だったマリア・ビュイックさんが待っているベステローサに移った。彼女は日本語が話せると期待していたのだが、今では殆ど忘れたと言われて、通訳には日本語の流暢なウッラ・ウオーレンさんを紹介して下さった。いよいよ自分が通訳する出番だと待機していた慶子さんは、ちょっと落ち込んだように見えた。だが、被爆体験を語り終えたあと、質疑応答の時間になると、彼女が学習しているヒロシマを伝えようと努力されたのは、私にとっても学びの時であったし、彼女にとってもいい経験だったと思う。

 プログラムの中で、とくに印象に残ったのは、教会の女性グループだった。集会場に入ったとき、目に飛び込んできたのは彼女らがテーブルについて手作業をしている光景だった。聞けば、アフリカのコンゴに起きている部族紛争地帯で活動している国境無き医師団の機関に、不要になった木綿のシーツ類で包帯を作って送るのだそうだ。「私たちは、今、地球上にある不幸に手を差し伸べています。今夜も手はコンゴの為に動かしていますが、耳はヒロシマを聞こうとしています。どうぞ、お話しください。いかなる場合でも核兵器が使用されてはなりません。傾聴します」と代表者が言われた。私は、かつて経験したことのない情景を目の当たりにしながら懸命に語った。通訳をしなくてよくなったので手持ち無沙汰になった慶子さんは包帯作りの仲間入りをした。

 私の語りが終わると作業も終わった。音楽室で練習を終えた聖歌隊が静かに入ってきて、讃美歌をコーラスした。人々は言葉を交わすことなく目礼して家路についた。

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(作業中の女性たちに語る)

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