2010年05月05日

29 スウェーデン編 3-2

もっとヒロシマを

 ノールショピンはストックホルムから南西120キロ。医療大学の教授ビルギット・フョルガードさんが私たちを受け入れて下さった。インドで宣教師をしていたというだけあって、室内は置物、織物、壁掛けなど象のオンパレードだった。彼女を訪ねて来る人たちは、それらを見るのが楽しみだという。

 医療大学ではイランから来たという学生に出会った。彼女は戦乱を逃れて来たが、やがては祖国に帰って医療に尽くしたいそうだ。彼女の話では、この近辺には中東から逃れてきている学生が多いそうだ。母国は敵対していても、ここでは仲良しですと言った。劣化ウラン弾による被害にも精通していた。私が森住卓氏の写真集を進呈すると、何度も頷きながらページをくっていた。

 ビルギットさんの家で反戦・反核をテーマにパーティーをすることになった。「おでん」を所望されたので市場に急いだ。適当な食材が見つからなかったが、何とか「おでん」らしい物が煮あがった。参会者の中に大阪と広島に行ったという人があって「あぁ、懐かしい日本の匂い。おでんを注文したのは私です」と言われた。

 ボーラスは、さらに西南250キロ、スウェーデン有数の工業地帯である。もともと人口の少ない国だから労働を移民に頼っていたので、産業は不安定気味だった。1995年のEU加盟後、難民の流入が急増したので雇用が進み、経済活動が勢いを取り戻したそうである。

 訪問した教会附属の学校は生徒300人くらい、36カ国の生徒がいるという。肌や髪の色、体格もさまざま。彼らがここに辿り着くまでの軌跡もさまざまである。スウェーデン語を履修するのは義務だが、秘かに英語を話しているのが分かったので、通訳として私に同行していた宮本慶子さんは休憩時間になると生徒たちの中に入ってヒロシマを熱心に伝えた。

 この講座は市民にも公開されたので後部座席を社会人が占めていた。その中に居られたヤン・スメドゥミア氏から夕食の招待を受けた。彼は貿易関係の仕事で何度も来日されたという。「日本ではオフィスより温泉や料亭でノミニケーションしながら仕事をします。最初は驚きましたが、すぐに馴れました」などと笑わせて下さったが、真顔になって「世界中の人たちが、もっとヒロシマを知らなくてはなりません」とも言われた。

 私たちが帰国して2ヶ月後、彼から、翌2003年、教育界・経済界の支援で若者千人の研修会をするから、講演をするようにと要請があった。


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(ノールショピンの街並み)


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(熱心に質問する学生たち)

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